Edge of Darkness


復讐捜査線 (エッジ・オブ・ダークネス)  (2010年2月)

ボストンの刑事トマス・クレイヴン (メル・ギブソン) の元に久しぶりに娘エマ (ボヤナ・ノヴァコヴィッチ) が帰郷してくる。幼い頃からエマを溺愛しているトマスだったが、エマは体調が思わしくなく、トマスはエマを病院に連れて行こうと外に出た途端、暴漢が車を乗りつけライフルを撃ったために、エマはその犠牲になってしまう。トマスは仇を討つためにほとんど単独で捜査を開始する‥‥


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久しぶりのギブソンの新作は、出演作としては自身がプロデュースも手がけたABCのTVシットコム「コンプリート・サヴェジス (Complete Savages)」以来だが、基本的にあれはほとんどカメオ的出演で、番組のプロモートという意味以上のものはなかった。とすると2004年の映画「パパラッチ (Paparazzi)」に出ているが、これまたノー・クレジットのカメオ出演だ。となると2003年の「歌う大捜査線 (The Singing Detective)」以来ということになるが、これも半分冗談以上のものがあったとは言い難く、そうすると2002年の「サイン (Signs)」以来ということになってしまう。


それでも2006年末には監督作の「アポカリプト (Apocalypto)」があることはあるが、人々が覚えているのはその「アポカリプト」ではなく、ほぼ時を同じくしてギブソンが酒を飲んで警官相手にくだを巻いた舌禍事件の方だろう。あれからもう3年経つのか。結局、あれで人前に姿を現しづらくなったというか、反省の色を示すためにも、当分は活動を控えざるを得なくなったということはあろう。おかげで長い間ギブソンは見てなかったという印象が強い。


一方、映画の主演、演出以外でギブソンを見かけたことがないわけではないが、それは昨年、TVのジェイ・レノがホストの「ザ・トゥナイト・ショウ (The Tonight Show)」「ザ・ジェイ・レノ・ショウ (The Jay Leno Show)」において、離婚することや新しいガール・フレンドとの間に子供ができたことの発表だったりして、最新作の話ではなかったりする。なんか、またスキャンダルになる前に自分から布石を打っておこうとしているという印象濃厚だった。そんなんじゃなくてさ、映画の話はないの?


で、今回やっと新しい出演作が公開され、そのプロモーションのために色んなところでインタヴュウに答えるギブソンを目にする機会が増えたわけだが、案の定と言うか、人々はほとんど反射的に舌禍事件の方を思い出す。インタヴュアーも当然思い出し、人によっては実際にそのことをギブソンに質問したりする者もいる。あの事件の影響は‥‥とかなんとか訊いたりするわけだ。ところがそれはギブソンにとっては癇に触ること以外の何ものでもない。それでインタヴュウの終わりに、マイクがまだ生きているのにインタヴュアーに向かって「asshole」なんて言っているのがちゃんと聞こえたりして、それでまたニューズ・ネタになってたりしていた。いったん悪くなったイメージの修復というのはなかなか難しいようだ。


実際ギブソンはこれまでなんとなく正義の味方的な役柄、特に近年はそういう父親像を演じてきたことが多いような気がしていたが、よく考えると、かなり怒れる父親、あるいは単に怒れる男を演じていたりする。代表作と言える「リーサル・ウェポン (Lethal Weapon)」なんていつも何かに怒っているほとんど自滅型の刑事だったし、「マッド・マックス (Mad Max)」だってそれに近い。そういう怒り、もしくは復讐にかなり時間を使っているのがギブソンのキャリアなのだ。


そしてそれは「エッジ・オブ・ダークネス」でも変わらない。ここでギブソンが演じるのは、娘思いの父親ではあるが、その父がやることは、殺されたその娘の仇をとることなのだ。結局ギブソンは、舌禍事件を起こした後も何も変わっていない、ただ時間をおいてほとぼりを冷ましただけというのを証明したのが、「エッジ・オブ・ダークネス」なのだった。人間の本質は簡単には変わらない。


「エッジ・オブ・ダークネス」は1985年放送の英BBC製同名ミニシリーズ (邦題「刑事ロニー・クレイブン」) のリメイクだ。昨年、やはり英BBC製のミニシリーズ「ステート・オブ・プレイ (State of Play)」のリメイク、「消されたヘッドライン (State of Play)」が製作された時、なんでまたこんな、オリジナルの記憶がまだほとんど鮮明に残っているのにリメイクなんか作るんだと思っていたが、今回のように間隔が空けば、リメイクにも意味が出てくる。だいたい、映画のクレジットを見るまでこれがリメイクだなんて知らなかった。


基本的に今回のリメイクはオリジナルをほぼ忠実になぞっているらしい。前回も今回も演出はマーティン・キャンベルなので、いつかハリウッドで、スターを使ってもう一度、今度はヴァージョン・アップしたものを作るという野心を持っていたんだろう。その機会が今回巡ってきたということか。因みにオリジナルでは今回ギブソンが演じた主人公をボブ・ペックが、娘のエマをジョアン・ホエーリーが演じている。今回エマを演じているのは、昨年「スペル (Drag Me to Hell)」で怪ばばあガヌッシュの娘を演じていたボヤナ・ノヴァコヴィッチ。


他に私立探偵ジェドバーグをレイ・ウィンストン、企業家ベネットをダニー・ヒューストンらが演じている。これらの人物はオリジナルでも同じキャラクター名がクレジットされているから、大筋にはほとんど手を入れていないだろうなということが窺える。こないだSyFyのミニシリーズ「アリス (Alice)」に主演していたカテリーナ・スコーソンが演じていたメリッサ役は、IMDBのオリジナルのクレジットでは役名が見つけられなかったが、新しく作られた役だったのだろうか。


コンパクトにまとまったポリティカル・サスペンス・スリラーだが、「エッジ・オブ・ダークネス」は全体としてのできそのものよりも、何はともあれ映画の中で死ぬ何人かの、その死ぬ時の演出で印象に残る。ほとんどの者は突発的に死ぬことになるのだが、その死に方がほとんどホラーなのだ。冒頭のエマの死もかなり印象的だが、その後の登場人物の死はさらにあっと言わせる。印象が似ている作品というと、ずばり「ファイナル・デスティネーション (Final Destination)」「デッドコースター (Final Destination 2)」のホラー・シリーズだ。あの突発的な死をシリアスなドラマにまぶしたという印象が濃厚になっている。


一方、その死の部分ではなく進行、手触り、全体としての印象で言うと、「エッジ・オブ・ダークネス」は「消されたヘッドライン」とかなり似ている。要するに、余分なものを削ぎ落とした骨格勝負みたいな点だ。両者ともオリジナルは6時間程度のミニシリーズで、それを贅肉をとり去って2時間程度にまとめているから、そういう印象を受けるのだろう。これがオリジナルだと、時間をかけて徐々に話を進めていくから、雰囲気の醸成という点ではむしろその方が効果的だ。それを映画化ではいかにもハリウッド的な金とスター・パワーをかけているから、それはそれでよくできているとは思うが、見た後に長く心に残るという点では、オリジナルの方に分があるかもしれない。


あと気になるのが、オリジナルではもちろん舞台は英国だが、今回の舞台はボストンに設定されていることだ。近年、ボストンというと「ミスティック・リバー (Mystic River)」「ゴーン・ベイビー・ゴーン (Gone Baby Gone)」等のデニス・ルヘイン原作の映像化やマーティン・スコセッシの「ディパーテッド (The Departed)」、TVのショウタイムの「ブラザーフッド (Brotherhood)」等によって、犯罪やヴァイオレンスの街という印象がほぼ定着している。


むろん本当のボストンはそこまでヴァイオレントな印象を醸す街などではまったくない。私も夏と冬と2度ボストンを訪れたことがあるが、歴史のある落ち着いたいい街だ。しかし「エッジ・オブ・ダークネス」でもボストンが舞台として選ばれたことによって、危険な街という印象を強化してしまった。ついでに言うと公開間近のスコセッシの新作「シャッター・アイランド (Shutter Island)」も、これまたルヘイン原作ということもあり、時代こそ50年代が舞台、ボストンという街ではなくボストン近郊の小島という設定ではあるが、やはり明るくないボストン近郊の話だ。この分だとボストンが観光名所から外れる時も近い。








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