Apocalypto   アポカリプト   (2006年12月)

マヤ文明末期、ジャングルの中で一族の者と平和に暮らしていたジャグア・ポウ (ルディ・ヤングブラッド) の部落を別の部族の者が襲い、応戦も虚しく一族のほとんどは殺されるか捕らわれの身となる。彼らはいったい何者か、なぜ一族を殺さずに捕虜としてわざわざ連れて行くのか。ジャグア・ポウらは前途に待ち受ける運命を知る由もなかった‥‥


_____________________________________________________________________


「ザ・パッション・オブ・ザ・クライスト」に続いてまたまた物議を醸しているメル・ギブソンの新作は、今度はマヤ文明末期の部族間の争いを描くアクション・ドラマだ。とはいえ私は後ろにピラミッドのようなものがそびえ、年代の読めない予告編を見て、てっきり最近よく目にする近未来/中世SFものだとばかり思っていた。そしたら結構ちゃんとした歴史アクションだったわけだが、だからといってそれで意外性が減じるわけでもなく、よくこんなの撮れたなとしか思えない作品であることには変わりがない。


まず第一に舞台が16世紀中央アメリカであり、しゃべっている言葉は英語ではない。もちろんスペインが侵攻してくる前の話であり、スペイン語でもない。登場人物は全員マヤ語をしゃべり、英語字幕が出る。もうこれだけで、かなりの確率で字幕アレルギーが多いだろうと思われるアメリカ人観客にとっては大きなマイナス材料だ。第一、いったいアメリカ人の誰が本気でマヤ文明の話に興味を持つというのか (まあ、「ファウンテン」みたいのもあるわけだから、興味を持っている者がいないでもないわけだが。)


さらに知られている役者は一人も出ていない。もちろんギブソン自身が出ているわけでもない。そして、これは見てから知ったのだが、ちょっとこのヴァイオレンス度は普通じゃない。例えば我々は戦争ものやギャングものは見慣れているし、イーストウッドの「父親たちの星条旗」の戦争シーンや、スコセッシの「ディパーテッド」のヴァイオレンス描写に心臓きりきりもんだったりするが、「アポカリプト」のそれは、さらに輪をかけてすごい。


そして、「アポカリプト」の公開に黄信号を投げかけていた理由として、実はこれが最大の理由と思えるのが、先頃のギブソンの素行不良にある。LAで酒酔い運転をした挙げ句、警官に絡んであらぬことを口走ったギブソンの不行状は、アメリカでは大きく報道された。ギブソンの信用がこれで失墜したのは間違いなく、事件直後の特に深夜トーク・ショウを中心とするギブソン・ネタのジョークの洪水なんて、本人はまず聞く気がしなかったろう。うちの女房なんて、酒飲んで車を運転し、さらに警官に暴言吐いて人種差別発言をする人間が作る映画なんて見る気がしないと、内容を気にもせずに早々とパス宣言していた。実はこんな感じでこの映画をパスした人間はかなりの数に上るのではないだろうか。


実際、事実上ユダヤ人に牛耳られているハリウッドで、そのユダヤ人の悪口を口走ったというのは、「アポカリプト」の公開直前ということを考えると、タイミングとしては最悪だった。「アポカリプト」配給はディズニーであり、ウォルト・ディズニーはアイリッシュ系だったということがよかったのかもしれない。ジェフリー・カッツェンバーグがディズニーと袂を分かっていて最も得したのが、実は今回のギブソンだったかも。


さて、そういう問題は山積みでありながらも無事公開にこぎ着けた「アプカリプト」、宗教にあまり入れ込んでない私としてはまだキリストの最期よりマヤ文明の最期の方に興味があるので、ギブソン自身の行状には目をつむって劇場に出かけた。そしたら、私としては、とにかくそのヴァイオレントな描写に驚いたのであった。とはいえ、この作品を単にヴァイオレントな作品として形容するのは当たっていない。ヴァイオレントという定義は場所と時代によって異なるだろうし、生きるために罠にかけて獲物を捕らえることをヴァイオレントといってられないし、殺し合いは生き延びるために不可避だったりする。いずれにしても、動物を殺したり人間同士殺し合ったりするのは映画ではよく描かれることであり、特に目新しいというものではない。


私にとって最も印象に残ったのは、足に怪我をした息子の手当てをするために、母親が大きな蟻に傷口を挟むように咬まさせ、その後、蟻の胴体をひねって頭から引きちぎり、頭を残したまま傷口を閉じさせるというシーンだ。実はこのシーンをヴァイオレントとか残酷とか思う者が多いかははなはだ疑問であり、実際このシーンでは場内から失笑のような笑いが漏れていたくらいなのだが、一方でやはり正視しづらいという気分もわかってもらえるかと思う。その一方で、私が幼い頃は汁物の中に蟻が入ってたりすると、働き者になるから飲み込みなさいと母から言われて、蟻ごと汁を飲んでたりした。これなんか、たぶん一瞬で死ぬわけじゃなかろうから、一気に頭から胴体を引きちぎるより残酷と言えば言えるかもしれない。


要するにヴァイオレンスとか残酷ということは非常に恣意的なものであり、一つの文明で残酷なものがもう一つの文明でも同じようにとらえられるとは限らない。したがって、ほとんどよく知られていない16世紀マヤ文明を描いた「アポカリプト」をヴァイオレントといって論難したり文句を言ったりするのは、的外れにしかならないだろう。とはいえ、誤解を怖れず堂々とそういうシーンを描いたギブソンには、やはり感心せざるを得ない。


また、後半の、ジャングルの中で展開する、ヴァイオレントというよりも追いつ追われつのアクション・シークエンスの面白さはかなりのもので、自分が仕掛けた罠や知恵と体力を総動員して追っ手と対峙するジャグアには本当に手に汗握らせられる。印象としてはかなりよくできた忍者映画を見ているような感覚に近い。「赤影」や「サスケ」でこんなシーンがあったような気にさせられる。「グラディエイター」的な要素もある。


「アポカリプト」は、結局アクションとしてよくできているから、文明がどうのこうのとか、家族愛がどうのこうのとか、西側の侵略とか、所々に見え隠れするちょっとした言及や問題提起は、その面白さの前に吹き飛んでしまう。沖合いに浮かぶスペインだかポルトガルだかの船は、同様に音楽をジェイムズ・ホーナーが担当していることもあって「ニュー・ワールド」を想起させるのだが、むろんここではそのことがテーマとして浮上するまでには至ってない。確かにヴァイオレント過ぎると反発する、特に女性客がいることは容易に想像できるし、我々はこんなに残虐な民族ではないとクレームをつけた地元の団体がいたりすることもわからないではない。


しかし、そんなことよりも、「アポカリプト」は血湧き肉踊るアクションとして面白いのだ。ギブソンは伊達に「マッド・マックス」や「リーサル・ウェポン」シリーズに出てないよな、ちゃんとどうしたらアクションが撮れるかということを肌でわかっている。もしかしたら案外クリント・イーストウッドに近いところにいるのかもしれない。まだ血気盛んなところがあるから問題を起こしたりスキャンダルを提供したりしているが、ギブソンはもう少し枯れると本当にイーストウッドみたいになれるかもしれない。公開初週の興行成績も、これだけ問題を起こしながらというか、そのおかげでというか、無事全米ナンバー・ワンにつけたようだし、ディズニーは今後もギブソンに作品を撮らせることを希望するものである。






< previous                                      HOME

 
inserted by FC2 system