Signs

サイン  (2002年8月)

3年前の「シックス・センス」、一昨年の「アンブレイカブル」と、既にアメリカのファミリー・ホラー (そういうジャンルがあるのか?) と言えばこの人しかいないという監督になってしまったM. ナイト・シャマランのディズニー・ブランドでの第3作目は、エイリアンの来襲がテーマである。昨年末辺りくらいから何度も何度もヴァージョンの異なる予告編を製作、先月からはTVや劇場で圧倒的な量の宣伝を展開、力が入れられていることがぷんぷんと伝わってきた。「シックス・センス」が公開されたのも3年前の8月最初の週末という、「サイン」(本当は「サインズ」なんだけどね) とまったく同じ時期だった。ディズニーがいかにこの映画に期待しているかがわかる。実は最近、この映画のTVCMばかり見せられたせいで、既にもう見ちゃった気になってたりもしたんだが。


グレアム・ヘス (メル・ギブソン) は元々は神父だったが、妻を事故で失ったことから信仰をなくし、今ではペンシルヴァニアの片田舎で、元ベイスボール・プレイヤーの弟のメリル (ホアキン・フェニックス)、息子のモーガン (ロリ・カルキン)、娘のボー (アビゲイル・ブレスリン) と共にトウモロコシを作って生計を立てていた。ある日、グレアムのトウモロコシ畑が、人間の仕事とは思えない何ものかの仕業で、綺麗な幾何学模様になぎ倒されていた。最初は誰かのいたずらに違いないと主張するグレアムだったが、説明のつかない奇妙な現象は続き、そして、世界各地でUFOの出現が報告され、エイリアンらしきものが目撃されるに連れて、グレアムも人知を超えた何者かが自分たちの周りを取り囲んでいることを信じるようになる‥‥


とにかくシャマランの語り口というのはうまい。「シックス・センス」からして既に巨匠の風格を漂わせていたが、「アンブレイカブル」では、あんな荒唐無稽の話を最後まで見せる話術に舌を巻かされた。そして今度はエイリアン襲来もの。それをSFというよりはリアリティのある現実的なドラマとして構成し、やっぱり最後までドキドキハラハラさせてくれるのである。いくら常套句のオン・パレードと批評家からはあまり好意的に評価されてはいないとはいえ、とにかくいったん見始めると止まらない。ストーリーテラーとしてのシャマランの技術は、現在、文句なしにハリウッド随一である。今、話術のうまい旬の監督としては他にスティーヴン・ソダーバーグ等がすぐに思い浮かぶが、観客を話の中に引きずり込む話し手としてのうまさだけを見るならば、シャマランを超える者はいないと思われる。映画界のスティーヴン・キングがシャマランなのだ。


「サイン」はエイリアン来襲ものであるが、実は登場人物はほとんど限られている。上記のあらすじに書いた登場人物以外は、女性警官のキャロライン (チェリー・ジョーンズ)、およびシャマラン本人が演じる獣医のレイ以外はほとんど登場しない。あとはTVに映る人たちとか、街の中で背景に映る僅かな人たちだけである。基本的に話は畑の中の一軒家であるヘス家だけにおいて展開するのであり、カメラはほとんどその敷地から外に出ない。それで世界中にエイリアンが襲来するという話がなぜ撮れるのか、しかもそれがなぜ嘘臭くないのか。もう、それははっきり言ってシャマランの話術に乗せられてしまっているからとしか言い様がない。本当にこの人、天性の語り手である。


登場人物では、主人公のメル・ギブソンより、その弟に扮するホアキン・フェニックスがいい。ギブソンは主人公として、あまり枠からはみ出たことはできず、その行動はだいたいが予期できるものだが、少し型破りのフェニックスがいることで、話の枠が広がった。彼を中心にうまく笑いをとるユーモアがまぶされていることで、逆に怖い部分が強調され、物語としての厚みがぐんと増している。また、「シックス・センス」でのハーリー・ジョエル・オスメントの演技は公開当時話題となったが、今回はロリ・カルキンとアビゲイル・ブレスリンというまだ幼い兄妹を演じる二人が、またまた幼いながらも芸達者なところを見せる。カルキンは名前からも知れる通り、「ホーム・アローン」シリーズのマコーレイ・カルキンの実弟であり、何人かいるカルキン兄弟の末弟に当たる。マコーレイのすぐ下の弟のキーランも、最近、よくTVで目にする。私はマコーレイが好きではなく、あの顔を見ると何だかムシャクシャして殴りつけたくなるような暴力的な衝動を覚えるのだが、この兄弟は少なからず皆似たような印象を持っており、ロリも今はまだいいが、数年後に兄貴たちそっくりにならないことを祈る。


基本的に「サイン」は、「未知との遭遇」と「ポルターガイスト」、それに「パニック・ルーム」を合わせて割ったものといえば、そう遠くはないだろう。よくできている話なのだが、気になるのが、作品中に登場するシャマランその人である。何を勘違いしているのか、今回は彼は主人公一家の近くに住む獣医役として、わりとセリフもある重要な役を自分に振って登場してくるのだが、これは失敗だった。素人にしてはうまい方だと思うが、この作品の中ではやはり素人ということを露呈してしまっており、なぜ自分のシーンだけ浮いているのが見えないのか、まったく不思議である。これだけ話を作るのがうまい人でも、自分自身が関係すると第三者の視点からは見えなくなるのか。シャマランは前作でもちょいと姿を見せていたが、ヒッチコックみたいに通りすがりの人で終わらせればいいものを、出しゃばって自分で自分の作品をぶち壊しそうになっているのをなぜ気づかない。


シャマランは映画界の人間にしては珍しく、時間通りに仕事を始め、時間通りに仕事を終える、いわゆる9 to 5型の人間だそうで、撮影を終えるとすぐに自宅に帰ってしまうそうだ。考えると、彼の映画はすべてフィラデルフィアのシャマランの自宅の近所が舞台となっており、それはちょっと郊外にまで足を伸ばすとはいえ、「サイン」も例外ではない。そういう家庭的な人間がなぜホラー系の作品ばっかりを撮るのかというのも不思議だが、だからこそホラーに惹かれるというのもあるかもしれない。


話は変わるが、先週見た「サンシャイン・ステイト」のジョン・セイルズは、作品の度に舞台が大きく変わることが特色で、アメリカ内部に限らず、平気でアイルランドやメキシコを舞台とする作品を撮る。言語が自分の知らない言葉になることさえ厭わず、面白い話になると思えば、場所を選ばないでどこにでも行く。そのセイルズも、現代アメリカ映画界で1、2を争うストーリーテラーとして考えられているところが実に面白い。シャマランとセイルズではまったくスタイルが違うのに、その二人がアメリカ映画界を代表する話術の使い手と見られているのだ。


話は「サイン」に戻るが、物語の最後、シャマラン扮する獣医とギブソン、それにエイリアンとの関係、さらに遡って死んだギブソンの妻がどうやって最後の大団円に結びついたのか、実は正直言ってよくわからなかった。え、あれ、これっていったいどういうことになっているんだっけ? と考えているうちに映画は終わってしまった。おかげで現在ちょっと消化不良である。これは何も私に限ったことではないようで、巷ではこのオチのつけ方に対する不満の声をよく聞く。私は別にこの種のSF作品にオチを付けることが必ずしも重要なことだとは思ってなく、見てる間だけ楽しめればそれでいいと考える方なのだが、世間一般にはその理屈は通用しないようである。実際、私もだからなんだったんだという気は大いにした。誰かその辺の事情を教えてもらえないだろうか。最後に蛇足を一つ付け加えると、シャマランは「サイン」の撮影に当たり、舞台となった家と畑を一から作り上げたそうで、あの家だけでなく、トウモロコシ畑もわざわざそのために半年前から種を蒔いて育てたのだそうだ。最終的に実ったトウモロコシは、近くの学校や各種団体に寄付されたそうである。







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