Babel   バベル   (2006年11月)

モロッコ。ライフルを手に入れた家の二人の息子が暇つぶしに狙って撃った銃弾は、観光バスの中のアメリカ人夫婦の妻スーザン (ケイト・ブランシェット) に命中してしまい、夫のリチャード (ブラッド・ピット) は助けを求めて奔走する。東京。多感で性的に目覚めてきた聾唖の高校生チエコ (菊地凛子) は、実業家の父 (役所広司) とうまく行かなくなっていた。メキシコ-アメリカ。サンディエゴでベイビーシッターをして働くメキシコ人のアメリア (アドリアナ・バラザ) は、息子の結婚式のために、面倒を見ている子供たちを連れ、迎えにきたサンチャゴ (ガエル・ガルシア・ベルナル) の車に乗ってメキシコに向け出発する‥‥


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ここんとこ車の調子が本当におかしい。先々週にバッテリー上がりで苦労したばかりなのに、今回、先日髪を切りに行きつけの床屋に行こうと車を動かしたら、ブレーキを踏み込んだ途端、後ろからがががと異音がする。どうやらブレーキ・パッドの換え時らしい。うーん、先週ガレージまで行ってるんだからさ、なんでその時一緒に症状出してくれんかな、そしたら一度で済んだのに、と思ったのだが、バッテリー上がりでブレーキ調子悪が一緒に来たら、かなりきついかも、ま、しょうがないかと思い直す。


そしたらその翌日、信じられないことに路上に停めてある (NYでは合法だ) うちの車のドライヴァー側がこすられ、サイド・ミラーが引きちぎられている。当て逃げだ。この車を買ってから約6年。ずっと路上に停めてきたが、こんなことは初めてだ。ワイパーに警察署の誰それに電話しろというメモが挟み込まれており、要するにここでなんか事故があって警官が来たことだけは確かなようだ。いずれにしても映画を見に行こうとしていたので、走らないわけではないということで左側の後方確認は直接目視でいき、できるだけエンジン・ブレーキを利かせてブレーキはなるたけ踏まないドライヴィングに徹して、スピードは出さずに映画館まで行く。行き慣れた道だからいいが、さすがにもうちょっと遠いと考えたろう。


「バベル」は「アモーレス・ペロス」「21グラムス」に続くアレハンドロ・ゴンザレス・イナリツの最新作だ。とにかく作品の力強さという点だけを見ると、イナリツは現在、文句なしに世界一力強い作品を撮る演出家だろう。とにかくオレはこれが撮りたいんだこうしたいんだという叫びがスクリーンに充満してて、そのせいでともかく何を撮ろうと、いったん作品を見始めるとぐいぐい引き込まれて実際にスクリーンから目をそらすことができなくなる。同じメキシコの映像作家のアルフォンソ・クアロンや、同様に南米のフェルナンド・メイレレスもやはり南米の血の熱さを感じさせる作品を撮るが、イナリツの場合は、ほとんど土着という言葉を連想させる、地に足がついているどころかぬかるむ地面に足をとられながら歩いているような、格好よさのかけらもない泥臭い力強さが最大の特徴だ。


「バベル」の舞台はこれまでのメキシコ、アメリカだけに留まらず、東京とモロッコを加えた三つの舞台で話が進む。構成自体は前2作同様の群像劇であり、登場人物の誰それの人生がどこで交錯してどのように影響を与え与えられるか、という大まかな構成だけを今聞くと、当然思い出すのはイナリツ自身の作品よりも、昨年の「クラッシュ」「シリアナ」だろう。「バベル」は「クラッシュ」ほど全登場人物の関係が緻密に紡がれているわけではなく、「シリアナ」のように一点だけで繋がっているわけではない。


そうではなく、東京とモロッコの関係は何年も前から築かれていたが、しかしその関係が今も続いているわけではない。そのモロッコで撃たれるアメリカ人観光客とメキシコ人のアメリアは以前から繋がりがあるが、しかしモロッコで起こる事件とメキシコで起こる事件に直接の繋がりがあるかといえば、まあ、ないことはないとも言えるんだろうが、微妙だ。モロッコで起こる事件がなくともメキシコでの事件は起こっていたかもしれないなど、すべてが有機的に繋がっているとは必ずしも言えない。それでも3つの事件が繋がっているように感じるのは、ある種の悲劇が通低しているからであり、それをとらえる視点が共通しているからだ。しかし「クラッシュ」も「シリアナ」も「バベル」も、この種の作品のタイトルがすべて単語一つだけというのはなんらかの意思が働いているのか。


今回日本人にとって「バベル」が特別なのは、当然東京が主要な舞台の一つとして選ばれていることにある。渡辺謙と共に、現在日本を代表する男優の一人であろう役所広司はともかく、菊地凛子という名前は初めて聞いたが、非常にいいできだ。彼女に限らず、日本の今の時代や若者、空気や雰囲気がこれだけ見事にとらえられているのを初めて見た。むろん邦画はほとんど見る機会がないので比較のしようがないのだが、少なくともここにあるのは「ロスト・イン・トランスレーション」「ワイルドスピードX3」で描かれた、ガイジンの視点から見たトーキョーではなく、内部から見た東京であり、それを撮ったのはハリウッド映画人ではなく、メキシコ人脚本家と演出家なのだ。


その脚本を書いたギレルモ・アリアガは、たぶん日本文化にある程度造詣が深いのだろう。端的に言ってオタク文化をよく知っていると印象を受けたが、もちろんそれだけではない。役所扮する実業家の下の名前はよりにもよってヤスジローであり、こんな名前をつけるのは彼が小津の作品に親しんでいたからに違いあるまい。実際、まだ若い警視庁の刑事が一杯飲み屋で一人で飲んでて焼酎をコップでお代わりするなんてシーンは、小津の時代ならともかく、今の世代の刑事が本当にやるかはかなり疑問だ。どっちかっつうと今の刑事なら「踊る大捜査線」の世界じゃないだろうか。 いずれにしても違う世界の話の世界を書いても納得させることのできるギレルモはさすがだ。「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」を見て、私が上げる個人的アカデミー賞脚本賞はこれだと思った私の目は間違っていなかった。それにしても渋谷や新宿のスクランブル交差点は、今や世界の観光名所になってしまったと言っていいだろう。


ところで「バベル」は主演は世界のスター、ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットのような書かれ方をしているが、実は特に彼らに焦点が当たっているわけではない。東京篇、アメリカ/メキシコ篇、モロッコ篇と分かれているそのモロッコ篇の中においても、私の印象では主人公は二人の少年であり、ピットとブランシェットの印象が特に強いかというと、そうは思わなかった。むろん二人はさすがにそれなりのオーラを発散させてはおり、特に世界で最も殴られるのが似合う被虐女優のブランシェットが、今度は撃たれて血まみれになっておしっこ漏らすというツボも押さえているのだが、やはり二人の少年、特に幼い方の少年の表情の前には霞む。完璧に演出された子役を前にすると、どんな俳優でも分が悪い。


しかし主演級じゃないというと、最も過大宣伝っぽいのがメキシコ篇に登場するガエル・ガルシア・ベルナルだ。この篇の主人公ははっきりと彼ではなく、ベイビーシッターとして生計を立てているアメリアに扮するアドリアナ・バラザであり、ベルナル演じるサンチャゴは単に無責任でお調子者の一人の男に過ぎない。ポスターだって写真つきのトップ・クレジットで、「ザ・サイエンス・オブ・スリープ」を見た直後で今度はどんな役をしているのかと期待してただけに、まあ、おかげで逆にこのたわけ者が! と頭に来て印象に残るというのはあり、実際に小物の悪党ぶりがはまっているのだが、しかし、この出番でトップ・クレジットはないだろう。


むしろここでも印象に残るのは二人の子供であり、女の子の方は、あの天才子役の名を欲しいままにしているダコタ・ファニングにそっくりと思っていたら、実際に彼女の妹のエル・ファニングだった。男の子の方は、こちらはすぐにキャンセルされてしまったけれども、今秋CWの新番組「ランナウェイ」で逃亡する主人公一家の一番下の子を演じていた子だった。印象に残ったと言えば、「カポーティ」の死刑囚であり、「シーフ」にも出ていたクリフトン・コリンズJr.が嫌みが印象的な国境の官憲として登場する。


映画を見てブレーキが悲鳴を上げる車を後方直視で運転しながらの帰り道で、ふと、そういえば昔、「ロゼッタ」を見に行った時も、これほどではないが車がいきなり調子悪くなったことを思い出した。不思議なもので、こういう生の感情がつめこまれた映画を見たりすると、人が映画を見て気分よくなったり調子よくなったり悪くなったりすることがあるように、その前後で車の調子が変わったりする。いや、本当に車もそうなるのだ。傷だらけの車を運転しながら私は、「バベル」で人々が受けた災難や置かれた環境を考えると、実際に人身事故に遭って怪我したわけでもなし、修理すりゃすぐ直るわけだし、このくらいで済んでよかったのかもしれない、などと考えていた。基本的にイナリツ映画は、逆境でこういう前向きに考える力強さを伝染させる。しかしそれで壊れなくてもいい車が壊れたのだとしたら意味ないか、などと思わないでもないが。  






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