Amores Perros

アモーレス・ぺロス  (2001年4月)

「アモーレス・ぺロス」‥‥「アモーレ」というのがスペイン語で「愛」というのは知っていたから、「アモーレス・ぺロス」というのは「愛の××」とかいう甘ったるいタイトルなんだろうなと思っていた。日本でも外国でも、タイトルに「愛の」とつくと、やはり女性客が入るんだろうか。でも予告編では骨太のドラマっぽかったけどな、なんてなんとなく思っていたら、映画が始まって、字幕で「Love's Bitch」という英題が出て、まず予想を一つ覆される。甘口の映画でないことだけは確かなようで、ほっと一安心。


「アモーレス・ぺロス」はメキシコ・シティを舞台に3つの異なる話を描くオムニバスである。ある一つの交通事故を契機に、大きな人生の転機を迎える3人の主要人物を中心に描く。第1話は兄の妻スザーナに横恋慕している弟オクタヴィオが、飼い犬を闘犬に出すことで金をつかんで街を出ようともがく様を描く。しかし彼は結局交通事故を起こし、スーパーモデルのヴァレリアを再起不能にしてしまう。第2話はそのヴァレリアと、妻と子供を捨て彼女と暮らすようになった雑誌編集者が描かれる。第3話は昔妻子を捨ててゲリラ活動に走り、刑務所から出所した後ホームレスとなり、時折殺人を請け負って生計を立て、陰ながら妻子を見守る中年の男を描く。


冒頭、いきなりカー・チェイスで幕を開けるのだが、そのアクションが、こういうのがハリウッド以外の映画でも撮れるのかと感心するできだった。事故のシーンなんて、設定は基本的にスティーヴン・ソダーバーグの「エリン・ブロコビッチ」の冒頭の事故のシーンそのままなのだが、それを何倍も強烈にしている。思わずあっと声を出した観客も多かった。


その事故を契機に幾つかの人生が交錯するという構図は「パルプ・フィクション」を思い起こさせるが、もちろん似ているのはそこだけで、その他の印象はまったく違う。どちらかと言うと、似ているのはまたまたソダーバーグの「トラフィック」の方である。それでも、たとえソダーバーグが撮っても結局ハッピーエンド、というかあまり暗くなり過ぎないハリウッド的な終わり方にせざるを得なかった「トラフィック」に較べ、「アモーレス・ぺロス」は3話共救いのない終わり方で、ほとんど未来を感じさせない。


全話に共通しているのが、主要人物がそれぞれ犬と固い絆で結ばれていることで、彼らと犬との結びつきは、時として人間との間との友情や愛情よりも深い。しかし、第1話でその犬を用いて闘犬をさせる時のリアルさといったら‥‥メキシコはきっとアメリカよりも動物愛護団体の活動なんて盛んじゃないだろうから、きっと本当に犬同士を戦わせて殺しているに違いないというリアルさである。犬に死体の真似やいかにも息も絶え絶えという演技ができるとは到底思えない。数席おいて私の隣りに座っていた女性なんて、犬同士が噛みつきあう度に、ひいっと短い悲鳴を漏らしていた。


しかし、この映画を見た後、評を読んでいたら、その批評家が見たヴァージョンでは、映画が始まる前に「この映画に登場する動物は一切危害を加えられていません」という注意書きが出たそうだ。私が見たのではそんなお知らせはなかったぞ。それともスペイン語で書かれていて英語の字幕が出なかったからわからなかったのか。いずれにしても映画の始まる前にそういう注意が出るところが、いかにこの映画の闘犬シーンがリアルであるかを物語っている。


とにかく重厚な語り口といい、話の繋ぎ方といい、メキシコを代表する巨匠とでもいうような表現がぴったり来る映画である。そうか、世の中には自分の国以外では知られていない隠れた巨匠がまだまだいるのだな、世界が小津や溝口、黒澤の日本映画を発見した時がこんな感じだったんだろうか、これからこの監督の過去の作品が相次いで紹介されるに違いない、と思っていたら、なんと、「アモーレス・ぺロス」は、監督のアレハンドロ・ゴンザレス・イナリツの劇場用映画デビュー作なんだそうである。


嘘だろう。そんなバカな。なんでこんな堂に入った作品がデビュー作で撮れちゃうわけ? まったく信じられない。こないだ「他人の味」でアニエス・ジャウィのデビュー作を見た時は、もちろんうまいと感じさせる才能も横溢していたが、やはりデビュー作らしい初々しさがあった。ところが「アモーレス・ぺロス」には、そういうものは微塵も感じられない。この映画から感じられるものは、怒り、諦観、焦燥、悔恨とかいうものであって、これを中年以上でない人間が撮ったことなど、まるで信じられない。しかしイナリツは1963年生まれ。私よりも若いじゃないか。


見ている時はそれほど気にならなかったのだが、後から思い返すと変だと思ったのが、第2話で怪我を負ったヴァレリアが、自己を起こした相手のオクタヴィオに対して責任の所在も求めず、慰謝料の請求も行わないことである。相手が貧乏人だからほっておいた? そういう損害賠償は全部保険会社任せ? それとも単にメキシコでは事故を起こした当事者同士はその後連絡をとることがない? まあ、あり得ない話ではないような気もするが、この事故の後、まるで何の関係もなかったように自分たちの生活に戻る当事者というのが、あまり納得できなかった。特に失うものなど最初からほとんどなかったオクタヴィオに較べ、生活のすべてを失ったと言えるヴァレリアの方は、オクタヴィオに対して恨み辛みを述べるのが当然ではないか。しかしヴァレリアはオクタヴィオのことははなから最初から存在しないかのごとく一切口にしない。実はこのことは見ている時は気がつかなかったのだが、今思い返してみると、やはりヘンである。


また、このエピソードでは、ヴァレリアの飼い犬リッチーが、新築 (のように見える) のくせに床が抜けるという欠陥マンションに開いた床の穴に、ボールを追って潜っていくのだが、そのままリッチーが床下から抜け出せなくなるというシチュエイションが、いくらなんでも嘘っぽすぎる。やたらとネズミも棲んでるし。第2話は3つの話の中で最も短く、30分くらいしかないのだが、話としては一番無理があった。しかし、実際プロのモデルのように見えるがきちんと演技しているゴヤ・トレドは、「ア・ガール・シング」で飾りにしか見えなかったエル・マクファーソンよりは何倍もうまい。


「アモーレス・ぺロス」は「他人の味」と共に、今年のアカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされていた。周知のように、今年のこのカテゴリーは「グリーン・デスティニー」があったために最初から決まっていたようなものだったから、「他人の味」も「アモーレス・ぺロス」もほとんど話題にならなかった。しかし、アン・リーには悪いが、「グリーン・デスティニー」よりも「他人の味」と「アモーレス・ぺロス」の方ができは上である。アメリカ人も、これがワイヤー・アクションを見る初めての経験でなく、エキサイトし過ぎないで冷静に見ることができたならば、そう思ったに違いない。リーは「グリーン・デスティニー」よりも、「いつか晴れた日に」か「アイス・ストーム」で認められるべきであった。しかし、いずれにしても「アモーレス・ぺロス」は他の国では既に認められていたようで、ポスターに刷られている最優秀映画賞をとった世界中の映画祭の名の羅列は、さもありなんと思わせる。さて、イナリツは次はいったいどんな作品を見せてくれるのだろう。 







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