Lost in Translation


ロスト・イン・トランスレーション  (2003年9月)

ウィスキーのコマーシャルの撮影で東京を訪れているボブ (ビル・マーレイ) は、言葉も通じない異国の地で仕事が終わるとやることもなく、一人ぽっちの気分を味わっていた。一方、写真家の夫ジョン (ジョヴァンニ・リビシ) についてきて同じホテルに滞在しているシャーロット (スカーレット・ヨハンソン) も、結局ジョンが仕事に行ってしまうと、ただ自分を持てあますだけだった。二人は同じホテルに滞在するよしみで次第に声をかわすようになり、段々近しくなっていく‥‥


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「ヴァージン・スーサイズ」でデビューしたソフィア・コッポラの監督第2作。今度はなんと東京が舞台だ。予告編でもなんとなくそそるものがあったが、評もいい。それに、一部では大根と囁かれているが、私は断固支持するスカーレット・ヨハンソンも出ている。ヨハンソンは演技力とかではなく、雰囲気だけで人を引きつけることのできる俳優なのだ。というわけで、この映画、なかなか期待していた。


実は私はここ3年ほど日本に帰省していないので、現在の、自分の田舎も含めた日本の状況には疎いのだが、よく日本に帰る知人の話によると、東京はすごくうるさいそうだ。どこに行ってもゲーセン、パチンコ、選挙カー、交通騒音、ケータイ、その他の街に流れるお知らせやら流行歌等の騒音に溢れていて、全然静かじゃないらしい。先月も帰省していたその人の話によると、ケータイに関しては一時よりはましになった感があるとのことだが、それでもニューヨークに帰ってくると、5番街でも静かに感じるらしい。


「ロスト・イン・トランスレーション」でも、東京のホテルに滞在する主人公が一歩足を路上に踏み出すと、その手の騒音には事欠かない。しかし、ホテルの中に引きこもると、今度は音がまったくなくなってしまう。その落差があまりにも大きいので、簡単に情緒不安定に陥ってしまいそうだ。元々東京に住んでいるわけではない者にとっては、適応するのに苦労するだろう。「ロスト・イン・トランスレーション」は、そういう、街の中に取り残される外部者がコミュニケーションをとることの難しさを描いている。


考えてみると、このタイトルは意味深だ。トランスレーションでロストしたものということを意味しているはずなのだが、失ったものは、元々の言葉が違う異国での会話におけるものだけではなく、会話することになんの差障もないはずの同じ母国語同士の間でも、会話する者同士がわかりあえているとは言い難い。むしろ、一見スムーズにコミュニケートしているはずのアメリカ人同士の会話において、相手に伝わらずに隙間に落ちていく言葉の断片がいかに多いことか。ボブと電話でお喋りする妻のセリフ、シャーロットとお喋りするジョンのセリフは、ほとんど独り言に過ぎず、実際には相手を要しない。だから相手は、適当に相槌さえ打っていれば、会話 (のようにみえるもの) は成立してしまうのだ。


一方で会話というものがいかにムダに虚飾されているかを端的に示すのがコマーシャル撮影中のボブとディレクターの会話もどきで、マシンガンのごとくボブにあれこれ注文をつけるディレクターの百万言は、ただ「右を向いて」の一言で事足りるものでしかない。こんなもん、いくら英語ができなくても通訳なんぞ要らないだろう。


そして会話が本来の目的を果たさない時、それを埋める手段となるのが、他人にとっては騒音でしかないカラオケとなる。カラオケはそれを楽しむグループの者以外にとっては邪魔にしかならないため、現代では、カラオケを楽しむ時は、他のグループを邪魔したり邪魔されたりしないために個室に入る。その外部から隔絶された部屋の中で、ほとんどは下手くそな誰かの歌を聴き、下手くそな歌を歌い、そして、だいたい、自分が次に何を歌うか、どう歌うかを考えていて、実は他人の歌なんかほとんど聴いていない。お愛想に拍手するのは、お愛想でも拍手を貰うための儀礼であって、実は自分たちのグループで個室にこもるカラオケでも、本当にコミュニケーションがとれているかは疑問だ。最も密接になるための場所で、実は他人との非コミュニケーションが最もあらわになるのだ。途中で疲れ切ってボックスの外に出てたそがれるシャーロットとボブを見てみるがいい。


コッポラは「ヴァージン・スーサイズ」が日本で公開された時に実際に体験したことが多くこの作品に反映していると述べているが、その日本体験よりも、実はこの作品に最も大きく投影しているのは、多分、実生活での夫のスパイク・ジョーンズとのコミュニケーションのとりようにあるのではないかという気がする。同じく映画作家のジョーンズも、少なくともコッポラと同等以上には忙しいはずで、忙しい映画作家同士の生活が、すれ違いばかりになるのは避けられまい。そのテーマが、東京という異国を舞台に最もしっくりはまったのではなかろうか。


私は最近ほとんどコメディ映画を見ないので、マーレイの出演作を見る機会は久しくなかっのだが、実は、ゴルフ好きとして知られるマーレイは、毎年PGAのトーナメントの一つであるペブル・ビーチ・プロ-アマに出ている。しかしコメディアンの彼がTVに映る時は、面白いプレイやギャグでギャラリーを沸かす時くらいで、彼のプレイ自体を見たことはこれまでなかった。そしたら今回、富士をバックにしたゴルフ場 (一昨年のワールド・カップの開催コースとなった太平洋ゴルフ・クラブか?) でマーレイがティ・ショットを打つシーンがあるのだが、すごくいいスイングでびっくりした。まるでシングル・ハンディキャップのゴルファーのスイングのようで、「バガー・ヴァンスの伝説」でプロ・ゴルファーを演じたマット・デイモンなんかより断然こちらの方がいいスイングをしている。しかし朝ぼらけの中、ロング・ショットでほとんどシルエットになったマーレイは、顔もよく見えず、もしかしたらスタンド・インを使っているのかもしれないなどと思ったのであるが、本当のところはどうなのだろう。


ヨハンソンは、この作品でついに、彼女のことを大根と言っていた一部の懐疑派の鼻を明かしてやることができたと言えるだろう。これまでに彼女が出演した作品は、「バーバー (Man Who Wasn't There)」でも、「ゴースト・ワールド (Ghost World)」でも、どちらかというと世界に無関心に見える、周りの世界に対して距離を置いた少女、みたいな役柄が多く、それに童顔のような美しさが相俟って、一部のロリータ好きのみにアピールしていた嫌いがあったが、これでもう、存在感を持つ女優としての力に疑問を差し挟む者はいまい。もちろん批評家からも絶賛されており、私も溜飲が降りた。あの気だるい雰囲気は、どちらかというとヨーロッパ系の女優と早合点しそうだし、実際、名前を見る限り元々は北欧系だろうが、このまま独自の道を進んでいってもらいたい。最近の映画はリアリティを重視する傾向があるために、別に美人でも何でもないごく普通の顔を持つ女優を偏重する傾向が強まっているが、それだけじゃつまらない。ヨハンソンは時代に逆行する大物女優なのだ。マーレイはこれまでに見た中で最もいいが、それよりもヨハンソンが来年のアカデミー賞の主演女優賞に引っかかってくる確立は非常に高いと思う。


東京を舞台としていることもあり、エンド・クレジットの、そのまた最後の方で日本の曲がかかるのだが、それがはっぴぃえんどというのがこれまた嬉しいというか驚きというか。こうやって聴くと、はっぴぃえんどって、古くない。むしろ当時より、今聴くほうが面白く感じるくらいだ。はすな見方をすると、日本の音楽シーンは70年代からまったく進歩がないということになろうかという気もするが。


それにしても久し振りに見る東京の風景は、異国情緒をそそる。私はアメリカに来て10年を余ってしまったが、これまでホーム・シックにかかったことは一度もない。それでも親がたまには帰ってこいと要求するのと、旧友には会ってみたいと思うから一応定期的に帰省はするが、これまで、特に帰りたいと思ったことはない。むしろ時差ボケが辛いので、帰るのは嫌だと思う気持ちの方が強かった。しかし、今回、スクリーンに映る東京を見て、初めて、ああ、久し振りに東京を歩いてみたいなと思った。私がもう東京にとっては異邦人となってしまって、逆にコッポラの視点から見る東京に同感するものが多くなってしまったからか、あるいは、単に私が歳をとって、過去を懐かしむ気持ちが強くなってしまったからか、その辺は自分でもよくわからない。しかし、そういう気持ちを見る者に喚起する力が作品にあるのは確かだろう。







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