中東の石油は西側資本主義の生命線だった。アメリカでは2大石油企業が合併を試み、CIAは中東を思いのままに操ろうと間者を派遣する。一方、中東の王子は未来のために民主化を推進しようとするが、保守化した王や野心的な弟に妨げられる。石油プラントに出稼ぎに来たものの首を切られて煮詰まった青年は自爆テロリストにスカウトされる‥‥


__________________________________________________________________


郊外のマルチプレックスに出かけたら、12館のうち5館を「キング・コング」、3館を「ナルニア」、1館が「ハリー・ポッター」と、子供/家族向け作品が占領している。残る3館も1館がコメディの「ジャスト・フレンズ」、先週見たSFの「イーオン・フラックス」と、大人向けエンタテインメントというと最後に残ったこの「シリアナ」しかない。まあ、単館上映のところに行くとそれなりに面白いのもやっているが、成人映画ファンをないがしろにし過ぎじゃないのか。


さて、「シリアナ」だが、またまたジョージ・クルーニー/スティーヴン・ソダーバーグ製作のポリティカル・ドラマだ。「グッドナイト&グッドラック」公開からまだ2か月しか経ってないのに、また話題作が登場する。しかも基本的にプロデューサーという立場で以外は作品にタッチしていないソダーバーグに較べ、クルーニーの場合は「グッドナイト」では監督、出演も兼ね、「シリアナ」でも重要な役で出演と、関係した作品にはかなり入れ込むのが特徴だ。


とはいえ、ポスターでは目隠しをされた、CIAエージェントのボブに扮するクルーニーのアップが使用されてはいるが、「シリアナ」は大量の主要な人物が登場する群像劇ゆえ、彼は、まあ、誰かを選ぶとすれば最初に主人公として挙げられる役だとは思うが、特にクルーニーだけに焦点が当たっているわけではない。


クルーニーはこういう、自分で製作して自分で出演して、時には自分で演出もするわけだが、彼の映画製作者としての最大の美点というか、感心するところは、決して出しゃばり過ぎないところにある。「シリアナ」でいうと、体重を増やして、ほとんど見苦しいくらいの、いかにも窓際に飛ばされる寸前のうだつの上がらないCIAエージェントになりきっている。いつでも自分が主人公じゃないと気が済まないトム・クルーズあたりとは考え方が違う。もっとも、いかにもハリウッド・スターと感じさせるクルーズのような俳優も必要だとは思うが。


クルーニーと「オーシャンズ11」「12」で共演しているマット・デイモンは、ここではエネルギー・アナリストのウッドマンに扮し、中東のある国の王子と共に国の民主化を手助けするという役どころで、青二才ぶりが板についていた「オーシャンズ」とは打って変わってかなり成長した様子を見せる。最初はまるで関係のなかったクルーニーとデイモンの人生が交錯して、二人が最後、一瞬顔を合わすところが作品のクライマックスとなっているんだが、「オーシャンズ」のつもりで大団円を待っていると、当然ギャガン作品ではそうはならない。「オーシャンズ」の主人公とツキ男の二人がいても、これだけ話がでかいと事は簡単には運ばないようだ。ギャガンはどうしてもアンチ「オーシャンズ」を提供したかったんじゃないかと思ってしまう。


クルーニー、デイモン以外にも重要な役は数多あり、デイモンの妻ジュリーに扮するアマンダ・ピートも、いかにもといった感じで悪くない。巨大企業を表から裏から動かすクリス・クーパー (彼も最近見る機会が多い)、クリストファー・プラマー、企業弁護士のジェフリー・ライト、中東の王子に扮するアレグザンダー・シディグ、日雇い人夫のマザー・ムニアといったところが、一応は主要登場人物と言える。


「トラフィック」でも見せたようにこういう群像劇はスティーヴン・ギャガンの得意とするところであり、それは今回も変わらない。今、同様に緻密な群像劇というと真っ先に思い浮かぶのはなんといっても「クラッシュ」のポール・ハギスだろうが、ギャガンは「L. A. ロウ」、ハギスは「NYPDブルー」など、どちらもTVのスティーヴン・ボチコ製作のドラマの脚本を経験して世に出てきているなど、経歴も似ている。元々それらのドラマが大勢の主人公を平行に描く番組だったわけだから、彼らがこういう群像劇を得意としているのは当然とも言える。


とはいえ「クラッシュ」がLAを舞台に、そこにうごめく多くの名もなき人々の人生が交錯するというドラマだったのに較べ、「トラフィック」、「シリアナ」は国境を越えての政治ドラマで、その辺の視点というものがまず違う。「クラッシュ」の場合は、あまりにも話を緻密に紡ぎすぎて、登場人物以外の外部の見えない手というものを想起させたが、「シリアナ」の場合は、その役目を政治、権力というものが担っている。結局市井の人々は、自分の思い通りにはならない世界で苦しみながら、なんとかそこで帳尻を合わせるしかない。


そういう微視的/巨視的な視点の違いがあっても、これらの作品が最後にはかなり似たような感懐をもたらすのは不思議だ。夢破れた後の諦観とも言えるし小さな仕合わせとも言える。どんな小さな世界にも機構的な上下の関係はあるし、どんな大きな世界でも結局人一人が動かないと物事は動かない。あるいは、それなのにその人間は使い捨てかもしれない。分相応を守るべきか勝負を賭けるべきか。どっちに転んでも負けてしまいそうな気もするし、どう転んでもなんとかなるような気もする。こういったジレンマこそ群像劇の面白さだとひとまず言っておこう。







< previous                                      HOME

Syriana   シリアナ  (2005年12月)

 
inserted by FC2 system