Good Night, and Good Luck   グッドナイト&グッドラック  (2005年10月)

1953年、時の上院議員ジョゼフ・マッカーシーによる赤狩りはアメリカのジャーナリズムを恐怖に陥れていた。CBSのニューズ・アンカー、エドワード・R・マーロウ (デイヴィッド・ストラザーン) は、ほとんど証拠もなしに人々をコミュニストと決めつけ、生活を破壊するマッカーシーのやり方に批判の目を向ける。一歩間違えば自分の身の破滅になりかねない挑戦だったが、周りのスタッフにも助けられ、事態は好転するように見えた‥‥



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近年、ジョージ・クルーニーは役者というよりもプロデューサーという立場で作品に関わる場合が多い。「コンフェッション (Confessions of a Dangerous Mind)」からは監督業にも乗り出し、今回の「グッドナイト&グッドラック」では初脚本にも手を染め、ついに製作/脚本/監督/出演と4足のわらじを履きこなすことになった。しかもそれでこの作品、結構誉められているんだから、やはり多才の人なんだろう。


しかもクルーニーの場合、関係する作品に政治色が強いのが最大の特色だ。反骨精神と言っていいかもしれない。そのことはプロデューサーとして初めて本格的にTV番組製作に乗り出した2000年の「未知への飛行 (Fail Safe)」からはっきりと出ている。核戦争の恐怖という題材、そしてモノクロ撮影、生放送という、ほとんど常識を打ち破るTV映画をいきなりプロデュースしたクルーニーが手を出す作品/番組は、その後もだいたい一貫して政治的色彩が濃く、それは「グッドナイト」も例外ではない。


特にクルーニーは現在、「アウト・オブ・サイト」以来の盟友であるスティーヴン・スダーバーグとかなり仲がよく、一緒にペイTVのHBOで連続して実験精神に富んだ番組を製作している。「Kストリート (K Street)」なんて、もろワシントンD.C.の政治の世界を舞台とした半即興的番組で、「アンスクリプティド (Unscripted)」に至っては、番組タイトルが示しているように、舞台設定を決めた後は役者は即興で演技していた。それが面白かったかどうかはともかく (正直言って、両者を本当に面白いと思って見ていたのは同業者以外いないと思う)、誰もが作ったことのない番組製作に率先して乗り出すこの冒険精神は大したものだ。


このようなクルーニー製作作品/番組の特色は、今回ももちろん健在だ。「未知への飛行」よろしくモノクロ画面、「コンフェッション」よろしくTV業界、「Kストリート」よろしく政治を描き、即興演技でないことを除けば、これまで同様、あるいはこれまでの集大成かのようなクルーニー的題材が展開する。


主人公のエド・マーロウはアメリカTV界の伝説的ニューズ・キャスターで、アメリカTV界の歴史を紐解くと、避けては通れない人物の一人だ。そのマーロウが敵対するジョゼフ・マッカーシー上院議員は、当時のアメリカのメディア界を灰色に塗り潰した元凶の人物で、彼からアカと睨まれると職を失い、路頭に迷うことになったのは、「グッドナイト」でも描かれている通りである。


マーロウに扮するのはデイヴィッド・ストラザーンで、私としては「激流」のようなちょっと気の弱いインテリみたいな役が最も印象に残っているが、硬派で押し切る今回は新しい側面を見せる。クルーニーは番組プロデューサーのフレッド・フレンドリー役で、特に出番が多いわけではないが、それなりにおいしいところもある。男ばっかりの俳優陣の中でほぼ紅一点のシャーリーに扮するのはパトリシア・クラークソン、社内結婚はご法度のCBSで内緒に結婚している同僚のジョーを演じるのはロバート・ダウニーJr.だ。CBS重役のペイリーに扮するフランク・ランジェラは、「アンスクリプティド」にも出ていた。


マッカーシーは誰かが演じるのではなく、作品中のTVフッテージにのみ本人が登場する。アメリカ・メディア界の歴史的悪役であるマッカーシーを誰か他の役者にやらせるよりは、本人そのものの録画フッテージを出した方がより効果的だとの判断だろう。しかし、マッカーシーって、実は後年、そのコミュニストの国だったロシアで民主化を推進したゴルバチョフに似ていると感じるのは私だけだろうか。特にあの、頭の禿げ具合、額上部に残る髪の毛の具合がそっくり。


それにしてもこの時代、猫も杓子も煙草を吸っていたようで、生放送の最中でも、あるいはであるからこそ煙草は欠かせない。全スクリーン・タイムの4分の3以上で登場人物が煙草を吸っていたのは間違いのないところで、今からでは考えられない時代だ。おかげでジム・ジャームッシュ作品でもあるまいが、白黒画面と相俟って煙が絵になってよく映える。この作品が白黒で撮られたのは、まず何よりも煙草の煙を絵にしたかったからではないかとすら思える。いったいジャームッシュの「コーヒー&シガレッツ」と「グッドナイト」ではどちらが多く煙草を吸っているか。私は「グッドナイト」の方に賭ける。途中、TVフッテージとして出てきて、やはり煙草をくゆらせながらケントの話をしていたのは、あまりにも若すぎて確信はないのだが、先ほど煙草の吸い過ぎで肺ガンで物故したABCのピーター・ジェニングスではなかったか。全員が全員あんな感じで煙草を吸ってたら、そりゃそのうちの何人かは肺ガンで死ぬだろうなと思う。


作品の面白さよりも私が映画を見ていて歯噛みしたのは、途中でかなりの頻度で挿入される、当時の時代情勢を背景にしたジョークの数々に笑えなかったことである。こういうシリアスな作品であるからこそジョークが効果的なのは当然で、しかし、かなり政治的なそのジョークが、背景がわからないため笑えない。周りの者が笑っているのに自分一人だけが笑えないのは、これは非常に口惜しいものである。なんとか言っていることは追えても、その意味するものがわからないのだ。周りでも時として理解できない者はいて (特に若いやつ)、隣りの連れに今のジョークの意味を説明されていたりするのだが、それだってまだ私よりは笑っていた。クルーニーが以前主演した「オー・ブラザー」は、そのあまりにもばりばりの南部訛りのために、やはりほとんど言っていることがわからなかった、私にとっては屈辱的作品なのだが、ここでもまた、今度は言葉そのものではないが、やはり意味がとれずに歯噛みさせられる。ふう、道は長く遠い。


それにしてもクルーニーはこれだけ作品の中枢すべてに関わっているんだから、成功した場合、その富や名声をすべて独り占めする栄誉を獲得できるだろうが、一方、失敗した場合、その責めを全部一人で背負わなければならない。逃げ道はないのだ。怖くはないのだろうか。それよりも自分の思うように作品を作れることの方が重要だったんだろうが、それよりも、クルーニーって筋金入りのギャンブラーなんじゃないかと思ってしまう。 






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