Crash   クラッシュ  (2005年5月)

ロサンゼルス。白人を徹底的に敵視するアンソニー (ルダクリス) とピーター (ラレンツ・テイト) は、政治的野心を持つリック (ブレンダン・フレイザー) とジーン (サンドラ・ブロック) の夫婦の車を奪い、逃走する。彼らの家の鍵を換えに来たダニエル (マイケル・ピーナ) は、その後、泥棒に入られた店の鍵を換えるよう頼まれるが、その店のアラブ系のオーナーと諍いを起こしてしまう。その他、悪徳警官のライアン (マット・ディロン)、そのパートナーの正義漢ハンソン (ライアン・フィリップ)、TVプロデューサーのキャメロン (テレンス・ハワード)、その妻のクリスティン (サンディ・ニュートン)、ピーターの兄で刑事のグレアム (ドン・チードル)、そのパートナーのリア (ジェニファー・エスポジト) らがそれぞれの行動の中でお互いに影響しあいながら、それぞれの生の分岐点となる一日が過ぎていくのだった‥‥


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「ミリオン・ダラー・ベイビー」の脚本で一躍脚光を浴びたポール・ハギスの監督最新作。元々ハギスは「L.A. ロウ」や「デュー・サウス」等のTV番組で出てきた人なのだが、TV出身のだいたいの人がそうであるように、演出も手がける。調べてみたら、劇場用映画でも既に「レッド・ホット (Red Hot)」なる作品を撮っていた。


「クラッシュ」は、LAを舞台とする群像劇である。登場人物はLAの、しかも人種的に偏見を持っていたりする人間が大部分を占める。作品はLAに住んでいるということ以外、人種も階級も違うそれらの登場人物が、ほぼ一日の間にめぐりめぐってなんらかの関係を持ち、それぞれが人生の節目となる体験を経ていく様を描く。


それにしてもこの豪華な出演陣。こないだ「シン・シティ」を見た時も、またえらく豪勢なキャスティングで惜し気もなく人材を投入しているなあという感を強く受けたが、「クラッシュ」もそれは変わらない。この中で主役というと、最初と最後に出てくるチードルが最もそれらしいかなと思うが、実は、彼は特に出番が多いわけでもない。それぞれが印象的なシーンに出ており、ディロンやハワード辺りも主演と言っても差し支えない。


俳優陣はそれぞれ好演しており、皆甲乙つけがたいが、一言ずつ言わせてもらうと、チードルはもはやヴェテランとしての風格が出てきた。ディロンは近年では最もできがいい。ハワードはこのところ、「レイ」、HBOのTV映画「ラッカウォンナ・ブルーズ (Lackawanna Blues)」、ABCのTV映画「ゼア・アイズ・ワー・ウォッチング・ゴッド (There Eyes Were Watching God)」と話題作に続けて出演、最近最も活躍している黒人俳優という印象を強く受ける。ニュートンは「ER」に続き、少し不幸っぽい上流階級みたいな役が続くが、これまたはまっている。きんきんしているブロックも悪くない。フィリップも近年のベスト・パフォーマンス。ウィリアム・フィクトナーはこういうワルっぽい役もそつなくこなす。エスポジトはもったいない使われ方で、彼女はまだまだできる。「ブラインド・ジャスティス」のマリソル・ニコルズといい、そろそろこの手のジェニファー・ロペス以外のラテン系の実力派がもっと表に出てきてもいい。ほとんどノー・クレジットに近いが、今TVでブレイクしているABCの「ロスト」に出演中の韓国人俳優ダニエル・デイ・キムが一瞬だけ顔を見せた時には、思わずにやりとしてしまった。


こういった群像劇は、どこでどういう拍子でそれまではまるで無関係だった者たちの人生が交錯し、どう影響を及ぼしていくかが見どころであるのはもちろんだが、これだけの内容を詰め込んだハギスの力量にまず感心する。群像劇とは名ばかりで、まるで関係のない登場人物の行動をより合わせただけで、実際には登場人物同士はまるで交錯しない、群像劇というよりも事実上オムニバスという作品も数多くある。「シン・シティ」はまさにそうだった。そちらの方が作りやすいだろうからそれは当然だろう。


ところが「クラッシュ」の場合、本当にそれらの登場人物同士がなんらかの関係を持っていくのだ。もちろんその方が作る側にしては圧倒的に難しくなるのは言うまでもない。しかも頭を捻って考えたわりにはその効果は疑問という状態に陥ってしまいがちであり、労して益少ないジャンルという印象が強い。しかし、決まった場合の印象は強烈であり、近年では「ゴスフォード・パーク」や「マグノリア」がその成功例と言っていいだろう。なんの因果か偶然かで、関係する登場人物がまるで見えない糸に手繰られるかのように、お互いに影響し、影響されながら物語が進行し、収斂していく様は、決まればこれぞ物語を語る醍醐味という快感を提供してくれる。


もちろん「クラッシュ」に対する評価は、その徹底してお互いが関係していくという点で割れている。実際、いくら群像劇といえども、ここまで登場人物の人生が交錯する緻密な作品はこれまで見たことがない。登場人物はほとんどが見知らぬ赤の他人同士なのであり、ある一瞬まではまったく別の世界に生きていたのだ。それらの登場人物がある一点を境に全員なんらかの関係を生んでいく。これをやりすぎ、ご都合主義ととらえる者がいるのもわからないではない。特に怪我をしたピーターが運ばれた病院で、そこの女医が、その前に出てきたアラブ系雑貨屋の親父の娘だったという辺りは、私ですらこれはやりすぎと思ってしまった。この辺の線引きは、確かに微妙で難しい。いずれにしても、よくこの作品が2時間弱で収まったと感心せざるを得ない。


上で群像劇として「ゴスフォード・パーク」と「マグノリア」を例に出したが、とはいえ「ゴスフォード・パーク」は全員が同じところで寝起きしており、それぞれが影響しあうのは当然だ。その点、「クラッシュ」と最もよく似ているのは、「マグノリア」の方だろう。まず、舞台が同じ西海岸ということから来る視覚的な印象がよく似ている。そして、特に最後に、両作品とも異常気象で幕を閉じる。「クラッシュ」で暖かいはずの西海岸で雪が降るというのは確かに劇的な効果を与えているし、「マグノリア」の場合、雪なんてもんじゃないものが降ってきて観客の度肝を抜くが、そういう、地表にうごめく虫けらのごとき人間のもがきを距離を置いて眺めるという視点の移動が、両者の印象を非常に似通ったものにしている。


いずれにしても「クラッシュ」は、この種の群像劇としては、これ以上緻密に紡ぎようがないくらいのレヴェルに達している。今後、簡単にはこの作品の緻密さを超える群像劇は現れまい。書き込みに書き込んだおかげで、登場人物はどんなにあがこうと物事が思うように運ばない将棋の駒で、どこかで操り手がいるとでもいうような印象を与えもするが、よくできた群像劇というものは、多かれ少なかれそういう完成された詰め将棋的な印象を与えるものだ。


とはいえ正直に言うと私は将棋は指せないのだが、日本にいた頃、ほとんど何書いてあるか理解もできないのに、新聞の碁や将棋の欄を結構面白いと思ってよく読んでいた。「ヒカルの碁」で、碁の内容まで全部理解して読んでいた者がそれほどいたとは思えないが、それでも面白いと思って読んでいた者が多かったのと同じことだろう。


ある時、いつものようによくわからないながらもそういう将棋欄を読んでいたら、解説子が、その時の棋譜を見て、手順が難しくて何がなんだかよくわからないけどどちらもすごい、という無茶苦茶なことを言っていた。冗談じゃなくてこういう発言があるから棋譜解説を読むのがやめられないわけだが、要するに、よくできた群像劇を見た時に感じるのが、まさしく、同様に、何がどうなってこうなったのかよくわからないが、とにかくすごい、ということなのだ。私が群像劇を見る度に連想してしまうのは、今でもやはり詰め碁詰め将棋なのである。やはりどちらも神の一手で決まるのだ。






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