Rosetta

ロゼッタ  (1999年12月)

まず、最近の映画の長大化傾向から始めなければなるまい。最近私は2時間を切る映画にほとんど当たっていない。たまにはもっとシャープな、ポイントを突いた、切れのいい90分くらいの映画を、え、これでもう終わりなの、もっと見たかったのに、と思いながら見終えてみたいと思っているのは私だけではないと思う。ところがである、今上映している映画ときたら、季節上、人々が感動ものを望んでいて、その上今年中に上映しないと来年3月のアカデミー賞の受賞対象とならないこともあるだろうが、各スタジオが力を入れた、従ってえてして上映時間の長い作品が映画がずらりと並んでいるのだ。


デンゼル・ワシントンが伝説的ボクサーに扮するノーマン・ジュウイソン監督「ハリケーン」が2時間26分、スティーヴン・キング原作、トム・ハンクス主演の「グリーンマイル」3時間7分、マイク・リー監督「トプシー・ターヴィー」2時間41分、アンソニー・ホプキンスとジェシカ・ラング主演の「タイタス」2時間40分、ジョディ・フォスター、チョウ・ヨン・ファ主演「アンナと王様」2時間27分、陳凱歌監督「始皇帝暗殺」2時間41分、アンソニー・ミンゲラの「太陽がいっぱい」のリメイク「タレンテッド・ミスター・リプリー」2時間19分、アラン・パーカー監督「アンジェラス・アッシュ」2時間20分、オリヴァー・ストーン監督、アル・パチーノ主演「エニー・ギヴン・サンデイ」2時間40分、ティム・ロビンス監督「クレイドル・ウィル・ロック」2時間13分、ロビン・ウィリアムス主演の家族映画「バイセンテニアル・マン」ですら2時間13分と2時間を余る。ガキがじっとしているかね。ああ、まだあった、ポール・トーマス・アンダーソン監督(「ブギー・ナイツ」)の「マグノリア」に至っては3時間10分である。これじゃあ劇場に行く気がしないではないか!


やっと2時間前後なのが、ウィノナ・ライダー主演「ガール、インタラプティド」2時間3分、工藤ゆうき、イーサン・ホウク主演の「アラスカ杉に降る雪」2時間7分くらいで、ジム・キャリーの「マン・オン・ザ・ムーン」1時間58分、レイフ・ファインズ主演「オネーギン」1時間46分がえらく短く見える。とにかく、3時間を超える「グリーンマイル」と「マグノリア」は何が何であろうとパスである。3時間というと「ゴッドファーザー」だが、あのくらいのレベルでなければこちらも到底つきあえない。そこまで自信があるのか、私にはただの肥大化したエゴにしか見えない。この中で、まあ、とにかく見に行くかと思うのは、イギリスやアイルランドの低層階級を描かせたら右に出るもののいないアラン・パーカーがアイルランドの極貧の家庭を描いた「アンジェラス・アッシュ」くらいか。「トプシー・ターヴィー」もなあ、これだけ長くなければなあと思うのだが。


また、最近はハリウッドも作家主義に迎合してきたのか、名前のある映画作家には勝てないようで、どんどん監督の自由を許す傾向にある。これはフランシス・フォード・コッポラのような、監督も兼業するようなプロデューサーが製作も行なうようになっているのとも大いに関係があるだろう。一度監督をやったことのあるプロデューサーなら、自分の意見をプロデューサーに曲げられた経験が少なからずあるため、自分が製作に回った場合、どうしても監督に肩入れしてしまうようだ。


それにインディペンデント映画出身の監督は、ハリウッドが駄目ならまたインディに戻ればいいさと考えているのか、プロデューサーの言うことに耳を貸さなく、プロデューサーもスタジオから命名された肩書きだけのプロデューサーというのが多くなり、実際の製作にはあまり口を出さなくなったと聞く。私はプロデューサーよりも監督がその映画を代表するという作家主義に賛同するものだが、こんなんならデミルとかセルズニックとか、自分でフィルムを切りまくった往年の専制君主が懐かしくもなろうというものだ。


前置きが長くなったが、こんなわけで、とにかく短い作品を探した結果が、今回の95分の「ロゼッタ」なのであった。久しぶりにヨーロッパ映画を見てみたいというのももちろんあった。しかし最大の理由が短かったからというのでは映画の監督も浮かばれないとは思うのだが、ほら、結構時間潰しに映画を見ようと思って、たった一つ、こちらの空いている時間とうまくかち合ったのを見たらこれが非常によく、以来その監督のファンになってしまった、という経験が誰にでもあると思うのだが、こちらとしてはそういうのも期待していたわけだ。だって、ヨーロッパ映画ってアメリカでは結構マイナーで、全国一斉上映なぞまずなく、マンハッタンの単館を探さなければ見られなかったりするのだ。それが一応クイーンズの近所まで来て上映しているというのだから、何となく期待してもみたくなるというものだ。


いや、しかし、この映画にはしてやられた。その内容はというと、ベルギー郊外のバスを改造したような簡易ハウスでアル中の母と暮らしている10代の女の子ロゼッタが、ただただ普通の生活をしたいだけなのに、職も次々と馘首になり、明日のない生活の中でもがいている、という救いのない話なのだ。しかもそのほとんどがロゼッタのクロース・アップがバスト・ショットで、それをぶれぶれの手持ちカメラでやられる。ドキュメンタリー・タッチを意識したのだろうが、どっかの大学の映画学科の学生の卒業製作を見ているような気分にさせられた。


一緒に見た女房は気分が悪くなって、帰ってくるなり寝込んでしまった。監督のリュック・ダルデンヌ、ジャン-ピエール・ダルデンヌ兄弟は、前作の「La Promesse」がわりと評判で、しかも「ロゼッタ」はカンヌ映画祭パルム・ドール作品、主演のエミリ・ドゥケンヌは主演女優賞受賞と、太鼓判付きの作品のはずだったのに。この映画を見た後、私の車も故障して修理工場入りと、なぜかツキに恵まれなくなってしまった。これも生活に絶望したロゼッタの呪いか。傾向は違うが、これではまるで「ブレアウィッチ・プロジェクト」である。


でも、監督の名誉のために、決して質が悪いわけじゃないことは言っておかなければなるまい。絶望したはずのロゼッタが最後に見せる一瞬の笑顔は、多分この笑顔を見せるためだけにこの映画を作ったのだろうということが納得できるし、たった一人の友人の男性を裏切ってまで手に入れた街角のワッフル売りで働きだしたロゼッタがふと見せる表情も、演出というよりはあまりにも生な心情の露出という感じで、確かにこんな表情は久しくスクリーンの上で見たことはなかった。彼女の表情こそがポイントで、それを見せたかったのだということは容易に想像できるが、しかし、やはり、せめてポイント以外はもうちょっとカメラを引くとか、ワイドショットを入れてくれるとか、ステディカムを使ってくれるとか (でもそうするとドキュメンタリー・タッチという意図に反するか)、観客のことを慮って欲しかったです、はい。






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