次作の構想にとりかかっていたカポーティ (フィリップ・シーモア・ホフマン) は、ある日、ニューヨーク・タイムズの記事に載っていた、カンザス州の一家4人皆殺し事件を読み、この事件を再構築したノン・フィクションを書くことを思いつく。カポーティは逮捕されたペリー・スミス (クリフトン・コリンズJr.) とリチャード・ヒコック (マーク・ペレグリノ) の二人組を獄中に訪れる。二人には死刑の判決が下るが、一方でカポーティは特にペリーと緊密の度合いを増していく‥‥


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「ロード・オブ・ウォー」が公開されたばかりのニコラス・ケイジ主演の新作「ザ・ウェザー・マン (The Weather Man)」が続け様に公開、演出はゴア・ヴァービンスキということもあり、まあ、特に惹かれるというわけではないが見に行こうかと思っていたら、あまり受けがよくない上にうちの近くの劇場に来ない。大手のパラマウントのくせに配給を推してないということは、やっぱり自信がないんだろうなあ。


ということで急遽予定を変更、こちらは当初まるで見る気はなかったんだが、批評家受けは悪くない「カポーティ」を見に行くことにする。近くで「ウェザー・マン」をしてないことに気づいてそれから慌てて代替作を探したので、面倒くさくなって、うちから徒歩1分の場所にある映画館でやっていて、しかも時間が合うのがこれしかなかったということで決めたのが、「カポーティ」にした最大の理由だったりする。無精で見る映画を決めるようになっちまってはいかんと思うのだが‥‥


さて、「カポーティ」は、もちろん「ティファニーで朝食を」で知られるトルーマン・カポーティを描くドキュドラマだ。映画はその「ティファニー」的な都会風の洒落た小説ではなく、この一作でその後のクライム・ノン・フィクションのあり方を変えてしまったと言われる、その後の「冷血 (In Cold Blood)」を書いている時期のカポーティを描く。


私は「ティファニー」のような小じゃれた小説も、クライム・ノヴェル/ノン・フィクションも特に得意分野というわけではなく、そのため実はこれまでカポーティ作品にほとんど触れたことはない。この映画を最初見る気がなかったのも、当然主人公その人をほとんど知らなかったからということがまずある。たまさか目にする写真と逸話でしかカポーティを知らない場合、好意的な好奇心をこの人に持つのは難しいのではないか。


さらにそのカポーティを演じているフィリップ・シーモア・ホフマンは、今年HBOのミニシリーズ「エンパイア・フォールズ (Empire Falls)」で没落した貴族の末裔という役割の男を演じていたのだが、実は私はそれにあまり感心しなかった。そのため、同じく上流階級のパーティに出没し、スノッブで知られるカポーティをホフマンが演じるということにほとんど興味が持てなかった。


だから私が「カポーティ」を見る巡り合わせになったのは、本当にいくつかの偶然の要素が重なりあったたまたまの結果なのだ。そのたまたまで意外な掘り出し物の作品に当たるのも、映画見の醍醐味の一つである。ほとんどこの作品は興味ないな、まず見ないな、ああ、まだやっているのか、でもまず見る見込みはないな、評は悪くなかったみたいだけど、まあパスだな、と思っていた作品を結局見ることになる。見るべくして見ることになる作品というのはこんなもんだ。


さて、カポーティという男は、どう見ても人好きのする人間ではない。ゲイでスノビッシュで背が低くて顔がでかくて気難して声が甲高くて皮肉屋でどう見てもハンサムとは言えないのに人一倍おしゃれには気を使うという男が、当時のニューヨーク以外では生きていくことは難しかったろうと思う。そしてそういう人間の文才が人一倍抜きん出ていたというのがまた面白い。天は二物を与えなかったと言うべきか、それとも一つだけ誰よりも勝るものを与えたと言うべきか。


そういうカポーティの感じを、ホフマンが非常にうまく体現している。元々多少癖のある、というか、嫌みな役をやらせると抜群の味を出すホフマンにとって、カポーティというのはまたとない題材だったようで、たぶんホフマン以外の誰もこれだけ説得力をもってカポーティを演じることはできないだろうと思わせる。ドキュドラマの場合、俳優はある程度実在だった主題の人物に似せようとするのは当然であるが、問題はもちろんそれだけではない。似てりゃいいってもんじゃないのだ。とはいえ、その人とわからないようじゃ今度は話にならない。本人に似せながら演じる自分の力も見せないといけないわけで、実はドキュドラマというのは、作品の作り手にとってどれだけメリットがあるかは疑問だと私は思っている。近年、実在の人物を演じてアカデミー賞にノミネートされることの多い事実を私は実は苦々しく思っているものだが、しかし、ここでのホフマンは確かにちょっと目が離せない。なんでこんな嫌みな男から目が離せなくなるのか。


カポーティが「冷血」を書くための取材をするにあたり、犯人の一人ペリーと、作家とその対象というラインを超えた、ほとんど恋人同士と言える関係にまで発展したことはよく知られている事実だ。「冷血」を読んだことがない私ですら知っていたんだから、本好きなら誰だって知っているだろう。しかし映画を見ていると、カポーティは、自分に時間があって自分がペリーに会いたい時だけ刑務所に足を運んでいるという感じが濃厚だ。ペリーは新しい弁護士を捜してくれと懇願しているのに、カポーティはパートナーのジャックと一緒に暖かい外国に長期滞在して自分の仕事をしていたりする。


ホフマンのカポーティの最もすごいところは、そういう、自分自身では死刑囚に対して同情して献身的な態度をとっていると自己満足し、時に自己憐憫の快感に浸っているとしか思えない、客観的に見ると自分勝手で嫌みとしか思えない男を演じながら、観客にそういう男に感情移入させることに成功しているところにある。こんな独りよがりで自分の才能を鼻にかける嫌みな男、現実なら絶対に近づきになりたくもないタイプなのだが、少なくとも、彼が自分の持つ100%の時間と努力からペリーのために割いた50%のうち、その50%に対しては彼は真摯であり、本気であった。だったらなぜ100%ペリーのために尽力してやらなかったのかという問いはここでは当たらない。なぜなら好意とか親切とか慈悲とかいうものは、それを与える側が与えるだけの余力があるからこそできるのであり、誰だって自分が貧乏になるなら人に金を与えようとは思わないだろう。


要するにカポーティはそういう、これ以上はできるできないという一線をいっそ潔いくらいに綺麗に引いていたために、思わず納得してしまう。たとえ相手が誰であろうと、この一線を越えてまでできないものはできない。たぶんカポーティは、パートナーのジャックが人を殺して刑務所入りしても、ペリーに対するのと同じ対応をしたのではないかと思われる。まず自分が最も大切で、余力があるならできる範囲で人助けをする。誉められこそすれ、別に貶される筋合いのものではないだろう。つまり、カポーティは徹底して自分の倫理に忠実な人物であった。だから人に迎合しないため、時によって他人の目にはそれが嫌みにも傲岸にも映る。ホフマンのカポーティから漂ってくるのはそういう印象であって、本物のカポーティがそうであったかどうかはともかく、スクリーンの上のカポーティからは我々は目が離せない。


「カポーティ」は、ホフマンのカポーティだけでなく、脇もなかなかいい。カポーティには私生活のパートナーであるジャックと、仕事上のよき話し相手と言えるこちらは女性のネリがいた。ジャックをブルース・グリーンウッド、ネリをキャサリン・キーナーが演じている。特にキーナーは今年私が見ただけでも「ザ・バラッド・オブ・ジャック・アンド・ローズ」「ザ・インタープリター」に出ており、今年最大のサプライズ・ヒット「ザ・40・イヤーズ・オールド・ヴァージン」にも出ていた。今年は当たり年だ。いわゆる「普通の人」は、実は演じるという点では最も難しいと思うが、それを実にさりげなくこなす。


他にクリス・クーパーも出ているし、死刑囚のペリーを演じるクリフトン・コリンズJr.とヒコックを演じるマーク・ペレグリノも悪くない。実は私はコリンズはもう少しなんか、悪かイノセントかどちらかを強調した方がめりはりが利いたんではないかと思ったが、女房はあれでよかったと言っていた。しかし、自分の命がかかっている時に、最後の頼りの綱が実は敵か味方かよくわからないカポーティだったというのは、彼にとって果たして幸運だったのか。それともそれが天の配剤、因果応報というものか。






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Capote   カポーティ  (2005年11月)

 
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