しがない東欧の移民の子としてアメリカに渡り、ニューヨークのブルックリンで親の経営するレストランで働いていたユーリ (ニコラス・ケイジ) は、ある日,目の前でロシアン・ギャングが撃たれて殺されたことから,武器は商売になることを悟る。この道に天賦の才があったユーリは,弟のヴィタリー (ジャレッド・レト) を仲間に率いれ,着実に基盤を築いて行く。策を練って長年思い焦がれてきたエイヴァ (ブリジッド・モイナハン) の心も射止めたユーリの前途は洋々のように見えた‥‥


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「ガタカ」のアンドリュウ・ニコルの最新作は,ニコラス・ケイジが武器商人に扮する「ロード・オブ・ウォー」。先週見た「ザ・コンスタント・ガーデナー」はケニアの内戦を扱い,今回も主要な舞台はアフリカの戦場だ。考えれば両作品とも実は裏で戦いを煽っているのは白人だったし、「ホテル・ルワンダ」だって内紛の元々の火種は白人が蒔いたものだった。白人って,あまりいいことしない。それはともかく、ニコラス・ケイジの顔が弾丸からできている「ロード・オブ・ウォー」のポスターはちょっといただけないなあと思っていた。じっと見ていると,気持ち悪くなってなんとなくむずむずしてくる。


「ロード・オブ・ウォー」のオープニングは,こちらを向いて話しかけるケイジを映した後,アメリカで一枚の鉄板が加工され,弾薬を詰められ,弾丸となって輸出され,アフリカでその一発の弾丸が黒人の少年の脳天を貫くというシークエンスを弾丸の視点で描くというなかなか面白い出だしになっている。ある一つの商品だかの生産や配送の行程、目的地に達するまでの流れを一気に見せるというのは、「ブロークン・フラワーズ」の冒頭の手紙の分配配送行程を思い起こさせる。手紙と銃弾というのは印象からするとまったく異なるものなのだが。


ユーリ (ケイジ) が育ったのは,ブルックリンのコニー・アイランド近辺の、いわゆるリトル・オデッサと呼ばれるロシア系移民が多い地域で,ロシア系ギャングによって町はすさんでた。なにもギャングはイタリア系の専売特許ではない。これで思い出すのはずばりそのギャングの抗争を描いた「リトル・オデッサ」だ。


一方,ユーリの弟として,心の中に巣食う良心を押さえつけて武器商人になるのは、やはりこのあたりを舞台にした「レクイエム・フォー・ア・ドリーム」に出ていたジャレッド・レト。要するに行楽地であるはずのコニー・アイランド近辺は、現在では寂れていて、こういうやばい雰囲気の方が強かったりする。実際,日が暮れてからのコニー・アイランド近辺はかなり不穏な雰囲気がある。特に,なんであんないかにもロシア系のチンピラみたいな奴らがあんなにうようよしているんだ。


ユーリは武器商人として短期間のうちに頭角を現してくるのだが,演じるケイジが,もう、似合っているとしか言いようがない。ケイジは不思議な役者で,真面目な警官の役をやったり,真っ当な恋愛ものにも出たりするのだが,道徳的に崩れた役をやらせると最もはまるという印象がある。実際真面目な役をやらせても,ついどこかしら暴走しそうな気配を濃厚に漂わせており,そういう危険を感じさせるところが持ち味だ。彼が今までにやった役で当たり役は、まさしくケイジが暴走し始めると作品が動き出すという印象があった。そういうケイジが武器商人というと,これはもうはまっているだろうというのは見る前からわかりきっていた。作品中ケイジは,なぜ武器商人なんかになったのかと訊かれて,「Because I'm good at it」と答える。もう、いかにもといった感じで,現実にこの男,武器商人になったら一流になったんじゃないかと思わせる。


道徳的に武器を売買することが悪いことだとは知っていても,現実にこの地球上のどこかで内戦や戦争が継続している現在,武器の売買は誰かがどこかで行わなければならない。武器を売る奴らがいなければ戦争はなくなるというのは詭弁でしかなく,武器がなければないで人は己の拳を武器にしても戦争を始めるというのは,「ホテル・ルワンダ」を見てもわかる。


もちろんユーリが作品中で言うように、「車を売っている奴らが交通事故の責任は取らないし、タバコを売っている奴らが人殺しで訴えられることはない」というのは、それこそ実は詭弁でしかなく,一応便利な文明の利器である車を売ることと、端的に人の殺傷が目的である武器を売ることには大きな違いがある。もしかするとあと何年かすると、タバコを売ることも武器を売ることと同じように、人を殺す商品を売りつけるものと見なされる時代が来るのかもしれないが,少なくとも今は,武器商人ほど人から忌み嫌われる商売はないと言えよう。それに較べれば,地方でドンパチやっているギャングの方がまだ可愛気がある。


そういう戦争の武器を調達するために,ちゃんとコンヴェンションがあって,戦争しているその当事者同士がやってきてお互いに武器買い付けの算段をするという不条理は、なにやらおかしい。別に第三者の国においては敵味方はないと何かの条約で決められているわけでもないだろうに,現地以外でドンパチやると世論がうるさい等の事情によって一時的に休戦状態になるという不文律ができあがっているようだ。相手をやっつけることだけが至上命令であるかのような戦場で,いたずらにただ現状を引き延ばすことは重要な作戦の一つということは,スティーヴン・ボチコの「オーヴァー・ゼア」でも描かれていた。闘争本能だけが支配するように見える戦場こそ,最も高度な駆け引きやパワー・ゲームが必要とされる。戦場で自分が何やってるかわからなくなって精神に異常をきたす人間が多いのは当然だろう。


「ロード・オブ・ウォー」は,当然,このようなブラックな皮肉に満ちている。ユーリ本人が言うように,彼は悪かもしれないが,必要悪なのであり,もし彼がこの仕事をしなかったら,誰か他の人間がこの仕事を引き受けるだけなのだ。しかもこの仕事が天職であるユーリは,周りの人間が死んだり去って行ったりしても、その仕事を辞めるわけにはいかない。なぜならこの仕事を辞めることは自分を殺すことと同義であるからだ。


とまあ、私がケイジ、久しぶりの大当たり役と感心した「ロード・オブ・ウォー」であるが,実はこの作品,エンタテインメント・ウィークリーを見てみたら、なんとD-評価がついていた。先週、「コンスタント・ガーデナー」を見ようとチケットを買う列に並んでいたら,周りの者がこの映画はどう評されていると,皆それぞれ前知識を得てから見に来ているようだったので、やはり少しは勉強して知識を得ておかないと意外な傑作を見そびれる可能性もあるかもしれないと少し反省していたのだが,そうやってどこぞの批評家がD-をつけたからといって「ロード・オブ・ウォー」を見逃していたら,心底後悔するところだった。やっぱり人の言うことには耳を傾けないで自分の見たい作品だけを見ることにしよう。こんなことを言っていると自分からこのページを読まなくてもいいですと言っているようなものだが。






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Lord of War   ロード・オブ・ウォー  (2005年9月)

 
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