牧場で働く老年にさしかかったカウボーイのピート (トミー・リー・ジョーンズ) は、メキシコから来たカウボーイのメルキアデス (フリオ・セディージョ) と深い友情を結ぶに至るが、メルキアデスは何者かによって撃たれて殺される。国境パトロールのマイク (バリー・ペッパー) がメルキアデスを撃ったことを突き止めたピートは、マイクを拉致し、メルキアデスの遺志に従って、遺体を故郷に埋葬するために国境を越えようとする‥‥


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この映画の予告編を見てうちの女房がぽつりと漏らした感想が、「くさそうな映画」だった。実はこの予感は的を得ている。なぜなら、この映画は、死んだ友人を馬に乗せて、故郷に埋葬してやるために旅をする男の物語だからだ。当然時間と共に死体は腐り始める。腐り出した死体がどんなに悪臭を放つかは、数々の大規模災害のニューズ報道を見ていればよくわかる。


実は予告編を見ただけだと、主人公のトミー・リー・ジョーンズが死体と一緒に旅をする映画だとは特に判然とはしない。まあ、タイトルに「埋葬」という単語があるからなんとなくそういう話かなと推測はできるが、それ以上のものではない。いずれにしてもその汗くさそうな、男くさそうな印象のために、女房は見る気が失せ、私は逆に面白そうに思った。同じカウボーイが主人公の「ブロークバック・マウンテン」ではあんなに興奮していた女房が、ジョーンズが主人公だとまったく見向きもしなくなる。わからんではないが、ジョーンズ可哀想。


さて、「3度の埋葬」は、前半は、初老のカウボーイ、ピートが、殺された友人を撃った男が誰かを探して回るフーダニット的展開だが、とはいえ犯人が誰か的なミステリ色は希薄だ。それまでに登場したキャラクターを見ていると、ほとんどピートと関係ないのにやたらとスクリーンに映るマイクが撃ったんだろうなというのはすぐにわかる。実際、マイクが撃ったことは同じ国境パトロール仲間内では既に知れている事実であり、レストランで働くレイチェル (メリッサ・リオ) がその話を立ち聞きしたために誰が撃ったかばれるという展開には、ほとんどサスペンス色はない。


しかし、たぶん違法にアメリカ入りしているメルキアデスを国境パトロール隊のマイクが誤って撃ったとしてもそれほど重い罪に問われることはなく、しかもだいたいこういう機構というものはどうしても罪を隠蔽して仲間を保護する行動に走りがちなために、誰がメルキアデスを撃ったかということを真面目に考える者はいなかった。ピートを除いては。結局ピートはマイクがメルキアデスを撃ったことを突き止め、強引に拉致して既に埋葬されていたメルキアデスの遺体を掘り出させると、死んだら故郷に埋葬してくれと話していた故人との生前の約束を果たすために、その遺体とマイクを馬に乗せ、国境を越えてメキシコに向かう。


つまり、「3度の埋葬」の後半はロード・ムーヴィだ。しかも腐りかけた死体と一緒というシュールなシチュエイションのロード・ムーヴィで、これで思い出すのは当然サム・ペキンパーの「ガルシアの首」だろう。この映画も腐りかけたガルシアの首と一緒に旅することで、ほとんど笑えないブラックなユーモア的なものが全編に満ちた異様に迫力のある作品になっていた。一方、同様にシュールな味わいのある「3度の埋葬」の後半部分は、「ガルシアの首」とは異なり、実際にかなり笑えたりする。


こういった笑いの部分は、シチュエイションもそうだが、かなりの部分、それを演じているのがジョーンズだという点に負っている。つまり、もの言わぬ腐り行く死体とジョーンズとの掛け合い漫才的な印象が濃厚なのだ。その辺の印象は、今度はヒッチコックの「ハリーの災難」とかなり類似している。死体にその意志はなくとも、周りの生きている人間の焦点のずれた対応が、ブラックな笑いをもたらすわけだ。時代が時代なだけに、「ハリーの災難」では腐って行く死体なんてリアリスティックな問題は出ずに、ただ死体と共に右往左往するというシチュエイションだけを利用したわけだが、「3度の埋葬」では死体に対する生理的な反応を含めて笑いを誘う。


特にジョーンズが、腐りかけてぼさぼさになったメルキアデスの髪の毛を梳かしてあげようと櫛 (というかその辺にあるたわしのようなもの) をかけると、髪をすくどころか髪の毛がごっそり抜けてしまうというシーンに私は思わず吹き出してしまったのだが、それは櫛をかけながら、あれ、こんなはずでは、と途方に暮れるジョーンズの表情に反応してしまうからだ。しかしこの笑いは人を選ぶだろう。実際、私が笑いながら横を見ると、数席おいて座っていたねーちゃんは引き攣った顔をしてスクリーンを凝視していただけなので、誰でもが笑えるというわけではなかろう。


こういったブラックな笑いの印象が強烈なためそこにだけ目が向かいがちだが、「3度の埋葬」の後半の道行きは、実はロード・ムーヴィとしてかなりよいできとなっている。だいたいロード・ムーヴィには2種類あって、目的が決まっているものとそうでないものとに大別される。目的が決まっていないものも、漠然とした目的地みたいなものはあったりするのできっぱりと線が引けるわけではないが、だいたい主人公が流れに任せて目的地が変わって行ったり、最初は見えなかった目的地が途中からはっきりしてきたりする。


「3度の埋葬」はもちろん前者であり、目的地はメルキアデスの故郷と最初からはっきりしている。それにしてもアメリカで紹介されるメキシコを舞台とする映画が、こういう桃源郷だか安住の地だかついの住処を探すみたいなロード・ムーヴィであることが多いのはなぜなんだろう。ジョン・セイルズの傑作「メン・ウィズ・ガンズ (Men with Guns)」もそうだったし、アルフォンソ・クアロンの「天国の口、終りの楽園 (Y Tu Mama Tambien)」もそうだった。そして「3度の埋葬」も、最後は結局理想郷を求める旅となる。たぶん、陽気で小さいことにくよくよしない (と思われている) メキシコ人気質、メキシコという土地柄がそういう作品と相性がいいのだろう。しかしそのメキシコから、人はよりよい生活を求めて違法に越境してアメリカを目指してくるのだ。


今回自分で演出、出演もするジョーンズは、過去に西部劇を経験しているという経歴、似たような年代 (まあ一回りは違うわけだが) という共通項もあって、すぐさまクリント・イーストウッドを想起させる。しかし、今ではハリウッドの大御所という感のあるイーストウッドに較べ、ジョーンズの場合は、出演作はともかく、自分が演出した作品を見ると、ケーブルTVのTNTで撮った西部劇の「ザ・グッド・オールド・ボーイズ (The Good Old Boys)」(なかなか味がある)、そして今回の「3度の埋葬」と、インディペンデント的な印象が強い。特に演出がうまいとは思わないし、実際、ここはもっとうまく撮れるはず、みたいな印象をまま持つのだが、言いたいことはちゃんと伝わってくる。その姿勢がいかにもハリウッド的というよりはインディ的で微笑ましい。考えると、イーストウッドだって演出に乗り出した時はかなり癖のある演出をしていた。ジョーンズだって化けるかもしれない。


演者としてはそのジョーンズよりずっと強い印象を残すのがマイクを演じるバリー・ペッパーで、高校の時は学校中の人気者で、同じく人気者のブロンド美人と結婚したのに、いつの間にか国境パトロールという自分としては不本意の職に就き、毎日毎日凝りもせずにメキシコからやってくる不法越境者を取り締まるという、気の滅入る仕事に携わっているという感じをよく出している。もちろんその仕事自体は退屈な仕事でも気の滅入る仕事でもなんでもなく、同じ仕事をしている同僚はそれなりに本分を果たして文句も言わずきちんと仕事をしており、要するにその仕事に文句があるのはマイクだけだ。


彼の、本当なら俺はこんなところで越境者相手に毎日時間を無駄に過ごしているはずじゃなかったという気持ちがメルキアデスの誤殺に結びつくわけだ。そういう、昔ヒーロー今ただの人的な、いかにもアメリカの頭の悪い若者、しかし別に悪人というわけじゃないという感じが非常によく出ている。とはいえ、彼も実はアメリカ人じゃないんだよな。「ブロークバック・マウンテン」のヒース・レッジャーといい、最近、最もアメリカ的なものを体現する役者は実はアメリカ人じゃなかったりする。



追記 (2006年3月)

上で「3度の埋葬」から連想される作品として、ペキンパーの「ガルシアの首」とヒッチコックの「ハリーの災難」を挙げたのだが、ずばり、ジョーンズその人が既に友人の遺体と共に旅をするという、まんまの作品に出ていたという指摘をいただいた。その作品、「ロンサム・ダブ (Lonesome Dove)」は、TV西部劇のクラシックでありながら、私は見ていなかったのだ。まったく誉められない。


とはいえ、今回脚本を書いたギジェルモ・アリアガも、まったく「ロンサム・ダブ」のことは知らなかったらしい。知っていたら当然こういう展開は避けただろう。というか、友人の遺体と共に旅するというのはこの作品の骨子だから、アリアガが「ロンサム・ダブ」を見ていたとしたら、「3度の埋葬」が書かれることはなかっただろう。アリアガはこれまでアレハンドロ・ゴンザレス・イナリツと組んで「アモーレス・ペロス」「21グラム」といった骨太作品をものにしてきたわけだが、死が身近にあるという感覚だけは誰と組んでも変わらない。


ところで、こういう死体と共に動き回るという設定は、実はまだあるに違いない。必死に思い出そうと努力して、やっと一つだけ「バーニーズ」を思い出した。これなんか「ハリーの災難」に近いものがあると言えると思うが、しかし、これは死んでいる者を生きているように見せかける話だから、「3度の埋葬」とはやはり違うような気がする。しかし、絶対この設定はまだどこかで誰かが使っているに違いないんだが。







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メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬    (2006年2月)

 
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