I Am Mother


アイ・アム・マザー  (2020年7月)

本当ならニューヨーク/ニュージャージーも再開のフェイズ4段階に入り、本気で行く気になるかどうかはともかく映画館も再開し、そしてその目玉となるはずだったのが、クリストファー・ノーランの「テネット (Tenet)」だった。しかし、全国的におつむのゆるい若者を中心とするバカ者たちのソーシャル・ディスタンス無視の行動によりコロナウイルスは収束するどころかむしろ拡大、映画館再開の目論見は元の木阿弥、「テネット」公開は無期限延期となった。 

  

上述のようにまだ不安が残るので、映画館が再開したからといって、行くかどうかの決心はまだついてない。しかし、それでも、見るなら「テネット」というのは、これはもう動かす余地なく決まっていた。ノーラン作品を最初に大きなスクリーンで見る機会を失うのは、あまりに痛い。 

  

その反動というわけではないが、今回Netflixで見た「アイ・アム・マザー」は、こちらはノーランみたいな大作ではなく、ほとんど対極的なミニマリズムSFで、一応赤ん坊と子供がちょこっと出ているとはいえ、基本的に登場人物は年頃の女の子と、素性のわからない大人の女性の二人だけ、あるいは、それに女の子の世話をする母親型ロボットを加えた3人? だけだ。 

 

いくら文明が滅亡した後の世界を描くディストピアものといっても、「猿の惑星 (The Planet of the Apes)」にせよ「28日後 (28 Days Later)」にせよ「ハンガー・ゲーム (The Hunger Games)」にせよ「スノウピアサー (Snowpiercer)」にせよ「ザ・ウォーカー (The Book of Eli)」にせよ「エリジウム (Elysium)」にせよ、生き延びた人間は大勢いる。 

 

この手の作品にしては珍しく、本当に主人公以外の人間は限られている「アイ・アム・レジェンド (I Am Legend)」だって、人間ではなくともゾンビならうようよいた。「オブリビオン (Oblivion)」だって、やはり後半は他に多くの人間がいたことが明らかになる。前半はロボット以外生物の登場しないディストピア・アニメの「ウォーリー (Wall E)」ですら、ちゃんと後半は (アニメの) 人間が登場する。 

 

TVでもhuluの「ザ・ハンドメイズ・テイル (The Handmaid's Tale)」にせよAMCの「ザ・ウォーキング・デッド (The Walking Dead)」にせよ、生き延びた者たちが必ずいる。それも結構うようよと言えるくらいいる。「ウォーキング・デッド」だって、結局描いているのは残された人間たちのパワー・ゲームだったりする。 

 

人類が死に絶えたという設定の「ザ・ラスト・マン・オン・アース (The Last Man on Earth)」(FOX) ですら、他に人間はいないはずなのに番組第1回の終わりには、既に他に生き延びた人間がいることがわかる。まあ、連続もののTV番組で本当に登場人物が一人しかいなかったら、番組の続けようがないが。ついでに言うと、最初主人公以外にあまりに他に登場人物がいないので、最初の方はむしろ読んでて退屈だったという印象のあるさいとうたかをのマンガ「サバイバル」ですら、後半ぐんと登場人物が増える。 

 

ところが「アイ・アム・マザー」の場合、徹頭徹尾限られた登場人物しかいない。作品が終わっても、やはり登場人物は3人のままなのだ。あるいは、ドーターの赤ん坊時代、幼年時代を演じている子がいるので、正確には3人ではないかもしれない。ドーター以外にも赤ん坊が生まれ、セリフではないが泣き声があるからには、充分クレジットされて然るべき俳優と見なされないこともない。 

 

とはいえ、やはり基本的にこの作品、登場人物はロボットのマザー、ドーター、女の3人のみだ。それでもやはりマザーはロボットで、たとえマザー専門に演じている、動かしている者がいるとはいえ、マザーを演じる者という言い方は腑に落ちない。実際の話、マザー役はルーク・ホウカーという男性であり、声を担当しているのはローズ・バーンと別人だ。 

 

つまり、ちゃんと人間としての顔と声を持って登場してくるのは、ドーターと女の二人しかいない。それで2時間持たす。ここまでミニマリズムに徹した作品というのは、とんと記憶にない。ディストピアものでなければ、わずかに登場人物の少ないSFという点では、「ゼロ・グラビティ (Gravity)」がなんとかタメ張りそうだ。「2001年宇宙の旅 (2001 Space Odyssey)」は、人間じゃないもの、ハル、サルとかが出てくるので、一概に比較の対象にはなりそうもない。 

  

等々、「アイ・アム・マザー」は内容自体も面白いのではあるが、それでも話を形作る枠組の強烈さがやはり一番印象に残る。人類が死に絶えて、外には誰もいない空間の広がる世界であるにも関わらず、演じられるのはたった3人の室内劇なのだ。 

 

それにしても、どたどた走るロボットって怖い。近年「ウォーキング・デッド」が、走り始めたゾンビをまたゆるゆるモードに戻して逆に怖さを増したと思ったら、今度はロボットが走り始めて怖い。基本的に無機質なものに追いかけられるのもゾンビに襲われるのもはたまたエイリアンに襲われるのも、結局はコミュニケイションがとれず、わかり合えないことからくる恐怖が核にあると思うが、しかしこういうのって、走ったり歩いたりするのが交互に流行ってびびらせる、みたいな法則でもあるのだろうか。 

 

ところで「アイ・アム・レジェンド」にせよ「アイ・アム・マザー」にせよ、登場人物が「アイ・アム‥‥」と宣言すると、それは文明滅亡後のSFになってしまう。たぶんそうやって始終自分自身の存在や立ち位置を確認していないと、自分が自分でなくなってしまうのかもしれない。と思っていたら、先頃、「アイ・アム・ウーマン (I Am Woman)」配給の予告があった。 

 

これは実はディストピアSFではなく、1960年代に男性社会で差別を受けながらもキャリアを開花させたオーストラリア人シンガーのヘレン・レディを描くドキュドラマだ。テーマが現代という時代にマッチしていることは言うまでもないが、実は人類滅亡までも予兆していることにならないかという不安が、頭をよぎらないこともない。 

 











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人類が滅亡して翌日、ある閉じられた施設で万が一に備えられていたプログラムが動き出す。それは保存されていた何百もの胎児を誕生させ、人類を再生させるというものだった。その世話をするロボット、「マザー」の働きにより、一人の女の子が誕生する。その女の子「ドーター」は、この世でただ一人、マザーの甲斐甲斐しい世話によりすくすくと美しい女性に成長する。しかしすべてをプログラム通りに完璧に遂行しないと気が済まないマザーに対し、ドーター (クララ・ルガアード) は感謝しながらも微かに息苦しいものを感じていた。ある時、施設のドアを外部から叩く音を耳にしたドーターは、それが大人の女性 (ヒラリー・スワンク) であることを知る。反対するマザーに隠れて、ドーターは女を施設の中に導き入れる‥‥  


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