この項を書こうとして、これ、ハロウィーンに放送された番組だったと思い出した。しかしもう新しい年を迎えてしまった。この遅筆というか、時宜を逸する癖をなんとかしないといかんと思うのだが、できそうもないとわかっている決心を新年からする気にもなれない。
「デッド・セット」も「ザ・ウォーキング・デッド」も、ゾンビを扱ったホラー・シリーズだ。「デッド・セット」は英国製の30分 x 5回のミニ・ミニシリーズで、「ウォーキング・デッド」はゾンビを主要登場「人物」にした、れっきとしたドラマ・シリーズだ。
「デッド・セット」は、英国版の「ビッグ・ブラザー (Big Brother)」を収録しているスタジオがゾンビに襲われるという話だ。もうこの設定だけで、思わず製作者に座布団一枚、と言いたくなる。ある場所に参加者を集めてパワー・ゲームによって脱落者を決めていくという勝ち抜きリアリティ・ショウは、基本的にCBSの「サバイバー (Survivor)」や「ジ・アメイジング・レース (The Amazing Race)」といった一部のヴェテラン番組を除き、見る価値はないというのが私の意見だ。
特に一人の異性の恋人の座を争うというまったく信憑性ゼロの、ABCの「ザ・バチェラー (The Bachelor)」を筆頭とする恋人獲得系は、存在価値はまったくないと思っている。勝ち抜き番組でこそないが、同様のことは、金はあるだろうがおつむの中身はまったくない、金持ちの子女に密着するブラヴォーの「ザ・リアル・ハウスワイヴズ‥‥ (The Real Housewives…)」シリーズにも言える、ついでに言うと、現在若い子に人気沸騰のMTVの「ジャージー・ショア (Jersey Shore)」ももちろんこの範疇に入る。
これらの番組をちらとでも見る機会があると、こいつら、鬱陶しいからみんなゾンビかゴジラにでも襲われて絶滅してくれないかとそのたんびに思っていた。「デッド・セット」は、どうやらそういう風にこの種の番組を苦々しく思っていたのが私だけではないことを証明した。
とはいえ、たぶん打倒一つ屋根の下パワー・ゲーム系リアリティ・ショウを願って企画したに違いないはずの「デッド・セット」は、実は話が始まってしまうと、逆に機能する。つまり、こいつらみんな一とところに閉じ込められてゾンビに襲われたらさぞいい気味だと最初は思うのだが、実際そういう風に設定して話が展開していくと、外にいる一般人はゾンビを防ぐ術はないが、「ビッグ・ブラザー」スタジオという密室もしくは要塞の中にいる番組参加者だけ生き延びてしまうのだ。思わず、そりゃないよと思ってしまった。
結局話は、外をゾンビが跋扈する中での「ビッグ・ブラザー」内部でのパワー・ゲームとして展開する。むろん、それはそれで面白いことには変わりない。このパワー・ゲームで負けて外に追放されると、待っているものは死、というかそれよりも怖ろしいゾンビに襲われての自分のゾンビ化だ。究極のパワー・ゲームにならざるを得ない。それでもやはり、偉ぶっている番組プロデューサーはこういう状態でも他人に命令して、皆の反感を買うのだ。
「デッド・セット」に較べると、「ウォーキング・デッド」の方は、かなり正攻法のゾンビ物語と言える。主人公のリックはUSマーシャルだが、事件の犯人を待ち伏せしていて撃たれる。次に病院で目が覚めた時は、周りに人の気配はなく、世界はゾンビによって支配されていた。
この設定は、ゾンビものとしてはセオリーだ。「28日後 (28 Days Later)」もほぼ同じ始まり方をしていた。ゾンビが発生した理由についても、理由は明確でないか、そうでなければ新種のウィルスである場合がほとんどで、これに対するワクチンはない。つまりゾンビはある時、自然発生的というか、現るべく現れて人々を襲うというのが基本だ。このことは、ゾンビが自然災害といった目に見える被害よりも、メタファーとして人間の存在を脅かすものであることを意味している。確かに新種の治療不能のウィルス的怖さはなくもないが、しかしウィルス発生経路や科学的事由なぞ本当は問題ではないのだ。
だいたい、考えるとゾンビってなんかヘンだ。ゾンビに襲われ、噛まれたり傷つけられたりするといったん仮死化し、すぐにゾンビとして復活する。常識で考えて、こういうことはあり得ない。そんな急激に細胞が変化することは考えられないし、もしそんな細胞の急変が実際に起こったら、個体は耐えられずにゾンビにすらなれず、本当に滅びて生き返らないだろう。
ゾンビは人の内臓を食らうが、なぜゾンビに栄養の摂取が必要かも謎だ。彼らは死んでいるんだから食物を摂取する必要はまるでないはずだが、皆判で捺したように人を見たら襲って内臓を食う。一方、だったら必然的に排泄もしなければならないはずだが、彼らは食うばかりで出すのは見たことがない。まさかエチケットで排泄する時は陰に隠れているというわけでもなかろう。
近年のゾンビは、走り始めたことに特徴がある。このことは「ゾンビランド (Zombieland)」でも書いた。「デッド・セット」もその轍を踏んでおり、ゾンビは全力で走って人間を襲う。一方、「ウォーキング・デッド」は時代に逆行して、ゾンビはまたゆるゆるゆらゆらの、昔同様のスロウ・モーションに戻ってしまった。誰も止めることなど叶わないと思われたいったん走り始めたゾンビのスピードが、ここに来てまた落ちているのだ。これはかなり冒険だと言える。これで現代のホラーたり得るか。
結論から言うと、見事になっている。実際の話、じくじくした恐怖感としては、ヴィジュアル重視の「デッド・セット」より、「ウォーキング・デッド」の方がより盛り上げるとすら言える。走り始めたゾンビがここへ来て自らその存在を見直し、基本に立ち返ってゆるゆると人間を追い詰めることで、自らの存在意義を再確認したのだ。これで走るゾンビも歩くゾンビも、両方が共存して人間を脅かす基盤ができた。人類が生きのびる可能性はほとんどなくなったと言えるかもしれない。
結局「デッド・セット」も「ウォーキング・デッド」も、ゾンビ・ホラーではあるが、最終的に描いているのは人間のパワー・ゲームに他ならない。「デッド・セット」では「ビッグ・ブラザー」セット内にとり残された生存者たちの間で誰が指揮をとるかで揉めるし、「ウォーキング・デッド」でも結局、生きのびた者たちの間で権力争いが起きる。ゾンビは人間の無力を思い知らせるための比喩として世に現れたはずだが、その存在がよけいに残された人間のちまちました権力争いを増長させる。本気で人類に未来はなさそうだなという気にさせる。