WALL•E


WALL•E/ウォーリー  (2008年7月)

地球がゴミの山に埋もれ、人間が脱出した後の地球上で、ゴミ処理ロボットのウォーリーは今日も一人ゴミ処理に精を出していた。ある日、そのウォーリーの前にロケットが着陸する。地球上に生命が育っていないかを確認する探査ロケットがやってきたのだ。友達が欲しくてたまらなかったウォーリーは、ほとんど敵意丸出しの探査ロボットのイヴァに対しても積極的に働きかけるが‥‥


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近年、私がアニメーションに興味を惹かれるのはまったくと言っていいほどなくなっているのだが、この「ウォーリー」だけは違った。なんとなればその内容といい一見した絵柄といい、「ウォーリー」は最初から手塚治虫の「火の鳥」を強く連想させた。あるいはアメリカ人なら「スター・ウォーズ」のR2-D2を想起する者も多いかもしれない。


むろんよく知られているように主人公ウォーリーは作者のアンドリュウ・スタントンがベイスボールを見に行って双眼鏡を借りた瞬間に閃いたものであり、よく見てみるとかなりR2-D2とは異なる。とはいえ二足歩行ではないキャタピラ歩行、身長の低いずんぐりむっくり体型等、その根本的なところでどうしても比較連想してしまうのは、手塚治虫マンガで育った世代においては、やはり「火の鳥」のロビタに他ならない。


ロビタは別にゴミ収集ロボットではないが、しかし人間のいなくなった世界でただ一体だけ、自分のプログラムされた行動を延々と実行するという設定は、「ウォーリー」と共通する。さらに、その、命令されたことだけを実行するようにプログラムされているウォーリーが、だんだん人間と同じような感情を持つようになってきて、一人でいることを寂しいと感じるようになり、友達を欲しがる、あるいはその自分の感情がプログラムをオーヴァーライドしてロボットにあるまじき行動に走らせる。これまたロビタがとった行動と同じだ。「ウォーリー」はディズニー/ピクサー版「火の鳥」なのだ。


近年のCG技術の進歩を受け、「ウォーリー」での描写は基本的に実写と見まがえるほど本物くさい。ウォーリーの寝床なんか、油くささが匂ってくるような微に入り細を穿った描写なのだが、それが中盤以降に人間がスクリーンに登場してくると、彼らだけがマンガなのだ。いきなり、運動しなくなったために全員デブになってしまった人間という存在だけがデフォルメされてマンガになってしまう。これまた手塚の「火の鳥」みたいだ。「火の鳥」も人間が登場しない、ロビタや周りの世界を描く時はかなり描き込んだ劇画のようなタッチになっていたが、人間だけはどうしてもマンガだった。


どうやらマンガ、アニメーションというジャンルは、人間をデフォルメするというのがそもそもの目的であるため、どうしてもその足枷からは逃れられないらしい。もちろん人間だって実写まがいのCGで描ける時代には入っているのだが、それをやってしまうと、では、なんでわざわざCGで実写みたいな人間を描かないといけないのという問題になってしまうため、人間を細かく描けばいいというものでもない。一部劇画やアメリカではグラフィック・ノヴェルの類いがその分野で成功しているのだが、さすがにディズニーがそれをやることはまだ先のことか。


いずれにしてもそんなわけで、「ウォーリー」だけは予告編を見た瞬間から、これはディズニー版「火の鳥」だ、こいつは見る価値がある、とにかく面白そうだ、と、公開を心待ちにしていた。近年はアニメは見なくなったとはいえTVやヴィデオ、DVDでは見てたりもするが、劇場で公開されるアニメーションをこれほど待ち遠しいと感じたのは、いったい何年ぶり‥‥何十年ぶりだろうか。30年ほど前の「ガンダム」の時以来かもしれない。


それにしても手塚の先見の明というか時代を先取りしていたその思考は驚くばかりで、「ザ・ライオン・キング」が出た時は「ジャングル大帝」のパクリじゃないかとかなり言われていたし、「鉄腕アトム」は今頃ハリウッドで実写化されるし、今また「ウォーリー」がやろうとしていたことの多くを既に描いていたことに感嘆せざるを得ない。手塚って本当に唯一無二の存在だったんだな。


とはいえそのことが「ウォーリー」の価値を低めるかというと、もちろんそんなことはない。最新CG技術をふんだんに用い、視覚ギャグを縦横に織り込んで製作された「ウォーリー」は、やはり賛嘆、驚嘆に値する。特にロビタ=ウォーリーの主軸展開以外でうまいと思ったのが、ウォーリーに絡む生命探査ロボットのイヴァだ。むろんロボットだから性差はないが、名前や状況から判断して、ウォーリーは男、イヴァは女だろう。なんといってもイヴァはもし生命の萌芽を発見した場合、自分の体内にそれを仕舞い込み、その生命を守る繭と化してあとはただひたすらその生命を守るためだけに機能するのだ。むろんこれは母親の仕事だろう。


一方イヴァは人間が生きていけないような世界での生命探査が任務であり、時には危険な状況で仕事しないといけない事態も考えられる。そのためイヴァは母親は母親でも、鉄火肌の姐御的な性格づけとなっている。最初、自分の仕事を邪魔するように見えたウォーリーに対し、イヴァは破壊光線を発射してウォーリーを亡き者にしようとするのだ。そのイヴァが、いつの間にやら友達欲しさのウォーリーに感化されてしまう。この変化はイヴァが女親としてプログラムされている以上、むしろ当然の流れだと言える。


「ウォーリー」において最もそれらしくない、というか醜い造型を施されているのが、中盤以降から登場する人間だ。汚染された地球を捨て、すべてが自動制御され自ら動く必要のない巨大な宇宙船の中だけで何世代もの歳月を経た挙げ句、人間は皆おしなべて体重過多、つまりデブになってしまう。全員が全員食っちゃ寝、食っちゃ寝の生活ばかりでほとんどエクササイズやスポーツを嗜んでいないから、デブになるのも無理はない。しかも実はそれがとある一企業が利益優先でビジネスを追求した結果だったというのが、いかにもアメリカらしい。


「ウォーリー」では人類は汚染の進んだ地球を捨て、宇宙に脱出するのだが、その事自体には特に悲観的な手触りはない。単純に、地球が汚れてきたから一時的によそに避難する、くらいの感じでしかない。一方「火の鳥」では、ロビタが一人とり残されるのは地球ではなく、どこともしれない宇宙の星の一つだ。その設定によってロビタは最初からある種の望郷の念を内部に抱え込んでおり、しかもその感情が満たされる可能性は最初からほとんどない。その点、荒んではいても地球で誰かの到着を待っているウォーリーは、太陽電池でいつまでも動いている限り、いつかきっと帰ってくる誰かと遭遇できるだろう。


つまり「火の鳥」と「ウォーリー」とで最も異なっているのはその辺の肌触りだ。「火の鳥」が特に悲観的な話だとは思わないが、特に明るい話でもないのは明らかだ。それはそれである種の感情を強く喚起させる傑作ではあるが、万人向けとも言えないだろう。一方、その万人向けを目指す「ウォーリー」は、ともすればお子様向けの砂糖をまぶしたような甘い内容になる可能性が常にある。私のようなひねくれた映画ファンはそこが不満なのだが、ディズニーの過去の傑作の数々は、そういう、万人を満足させるハッピー・エンドでありながら、単純に砂糖菓子だけではない深みも併せ持っていた。そして嬉しいことに「ウォーリー」もその列に繋がる新たな傑作と言うことができる。いったい久しぶりに劇場でアニメーションを見て、ラストに隣りに座っているガキどもと一緒にうるうるする、なんて思ってもみなかった。私のようにすれた映画ファンにこそお薦めの一本。







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