Star Wars Episode III: Revenge of the Sith   

スター・ウォーズ エピソードIII シスの復讐  (2005年5月)

さらわれたパルパティン議長奪回作戦を成功させたオビ-ワン (ユワン・マグレガー) とアナキン (ハイデン・クリステンセン) だったが、パルパティンにはきな臭い匂いが漂っていた。一方、パドメ (ナタリー・ポートマン) はアナキンの子を宿していたが、アナキンはパドメに不幸が起こることを予知してしまう。既にジェダイの任務よりパドメの方が重要になっていたアナキンは、何があってもパドメを救うことを決心するが‥‥


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「スター・ウォーズ」の前日譚3部作がいよいよ結末を迎える。しかし、アクションはともかく、ドラマに弱いルーカスを露呈してしまった「エピソード1: ファントム・メナス」を見た後に、たぶんアナキンがダーク・サイドに転落するドラマに比重がかかっていると思える「エピソード2: クローンの攻撃」はどうしても見る気にならず、パスしていた。


そしたらこないだ、「エピソード3: シスの復讐」の公開に合わせ、TV放映されていた「クローンの攻撃」を見たら、アナキンはまだジェダイ側で頑張っている。げっ、ということは「シスの復讐」も結構ドラマ重視でいくのかもしれん。困った。一応オリジナルの「スター・ウォーズ」は二十何年前に3作共ちゃんと公開時に見ており、今回も「クローンの攻撃」はともかく、締めの「シスの復讐」だけは見る気でいたが、正直言って、ルーカス演出のドラマを見る気にはあまりならない。


SFにほとんど興味のない私の女房はさらにそうだったようで、「クローンの攻撃」を見ながら退屈を持て余した挙げ句、結局途中から手近にあったマンガを読み始めた。実際、特に小さな画面のTVで見てしまうとアクション・シーンも効果が半減してしまい、むしろCGのアラが目立って、正直言ってこのシリーズがなんで毎回公開される度に興行成績の記録を塗り替えるほどヒットするのかよくわからない。女房は早々と「シスの復讐」も見ないとパスを宣言し、一応私だけがルーカスの映画界に対する貢献に敬意を表して、一人だけで劇場に足を運んだ。


それにしても不思議なのは、今回、「シスの復讐」を見に来る者は、全員、アナキンがどういう経緯によってかジェダイを裏切り、ダーク・サイドに転落し、ダース・ベイダーとして悪の首領として君臨するまでを描くということを知っている。ついでに言うと、その何十年か後に、ダース・ベイダーが最終的に自分の実の息子であるルーク・スカイウォーカーによって倒されるということまで知っている。結末を知っていて見るというのは、これはまるで古典を見にいくのと変わらない。また、「スター・ウォーズ」がかなり黒澤や日本のチャンバラ映画の影響を受けているというのは有名な話だし、時代劇が基本的にはどの話も同じ骨格を持っているのはもちろんだ。


一方、一見しての「スター・ウォーズ」の魅力は、宇宙空間における戦闘や重力を感じさせないスクーターや宇宙船レース等の、未来を舞台としたアクションにあるが、実はクライマックスではどの作品においても、勝負はライト・セイバーを駆使した一対一の剣劇勝負になる。結局は最終的には肉体勝負なのだ。フォースはその勝負を盛り立てるための飾りに過ぎない。本当に未来SFなら、戦闘はどう考えても光線銃かなんかの飛び道具になり、それで決着はついてしまうはずだ。


実際、最初はそうやって戦っているのに、物語が佳境に入ってくると、わざわざ自ら飛び道具を捨てての肉弾戦に持っていくように見える。基本的にそういう体裁をとるSFは多いが、「スター・ウォーズ」は特に徹底している。「スター・ウォーズ」が未来SFにもかからず、どこか古くさい、懐かしいような印象を与えるのはここに理由がある。実はその本質はロウ・テクの「スター・ウォーズ」は、そのため老若を問わず (男女も問わないかは疑問だが)、万人にアピールするのだ。


とはいえ正直に言って、剣劇映画としての「スター・ウォーズ」は、チャンバラ映画に遠く及ばない。黒澤や工藤栄一や小林正樹作品のチャンバラ・シーンの演出の方が明らかに上だ。ライト・セイバー・アクションは、じっくりと見ると明らかにとろい。刀身が光るのでごまかされるだけだ。一方、歴史の浅いアメリカにおいては、真面目に剣劇映画を撮ろうと思ったら、「ロビン・フッド」や「パイレーツ・オブ・カリビアン」や「三銃士」や「モンテ・クリスト伯」のように、舞台を外国にするか、「スター・ウォーズ」のように未来に設定するしかない。


「スター・ウォーズ」はそれを徹底的に大見得を切って、いかにもアメリカ的なはったりを利かせてでき上がったわけだが、要するに、さすがにこれだけ物量を投入してこれでもかというくらいにやられると、あまりにもこちらの普段の生活や指標レヴェルを超えてしまっているものだから、そのめくるめく世界に思わず我を忘れる、なんてことになる。「スター・ウォーズ」ほどアメリカ的なものはないと、見る度に思う。「スター・ウォーズ」がこれだけ世界中で人気があるということは、とりもなおさず人々がアメリカ的なものに憧れているからだろう。


そしてこれくらいの物量と時間をかけると、さすがにその効果もあると言わざるを得ない。「シスの復讐」の最後では、予告され、誰もが前もって知っているように、ついにアナキンがダーク・サイドに転落するのだが、オビ・ワンとの対決に破れ、両足を切り落とされ、灼熱の溶岩に巻き込まれて全身が焼けただれても執念だけによって生き延びていたアナキンが、パルパティンの手によってマスクや義足、ボディ・スーツを装着させられ、ダース・ベイダーとして復活する。


物語はいよいよクライマックスに向かっており、二十何年間の物語の輪が今閉じようとしている。アナキンにマスク/兜が被せられ、いよいよダース・ベイダーが姿形をとり始める。アナキンが消え、ダース・ベイダーが現れ、そしてあの、スー‥‥ハー‥‥スー‥‥ハー‥‥という耳慣れた呼吸音が聞こえ始め‥‥いや、もう、鳥肌立つほどぞくぞくしてしまいました。ルーカスはこれがやりたかったんだなあ。結局私もルーカスの思うツボなのであった。


ところで今回の「シスの復讐」で物語は一応の完結を見たわけだが、当初、「スター・ウォーズ」は (未来から見た) 過去、現在、未来をそれぞれ3本ずつ、計9本で構想され、つまりあと未来篇3本がまだ残っているはずだが、それは今も変わらないのだろうか。そういう話はまったく聞かないけど。しかし、まだルーカスにその気が残っているとしても、それが次に完結するまで、また、あと二十年、三十年かかってしまうのかもしれない。このくらい悠長とした時間軸で話が進むと、果たしてその時までルーカスが生きているんだろうかなんて不埒な考えを持ってしまう。それでも、やはり、確かにSFはこれくらいの金と時間をかけてもらいたいよなと思うのであった。



追記 (2005年7月)

上で堂々と「スター・ウォーズ」は未来の話なんて書いていたら、あれは「Long long time ago...」のお話ですよね、という指摘を頂いた。そうだった。迂闊にも作品が始まる時に必ず現れる但し書きを毎回目にしているはずなのに、その部分が頭から欠落していたのだった。意識して見ているのではない限り、人は目に映っているものを必ずしも見ているわけではないということをもろに証明している。それにしても、やはり私の見方は偏っているなあと、またまた教えられた気分である。このサイトに書かれていることを真に受けたらいけません。






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