「ザ・ハンドメイズ・テイル」は、1985年発表のマーガレット・アトウッドの同名原作 (邦題「侍女の物語」) の映像化だ。1990年フォルカー・シュレンドルフ演出で映画化もされている。その時の主人公はナターシャ・リチャードソンで、他にフェイ・ダナウェイ、エイダン・クイン、ロバート・デュヴァル、エリザベス・マクガヴァン等、なかなかのメンツが出ている。因みにこの時音楽を担当したのは坂本龍一だ。
「ハンドメイズ・テイル」は近年よく見かける、世界が滅亡した後や文明が崩壊しようとしている様を描く、いわゆるディストピアものだ。これらの作品は、本当に世界が崩壊して地上にほとんど人がいなくなった世界を描くものだったり、一旦崩壊した世界をなんとか立て直して維持するために、新しい規律規範を導入して社会を維持しようとする様を描くものだったり、攻めてくるエイリアンやサルによって支配されていたり、あるいは抵抗して戦うものだったりする。
それでも、これまではディストピアものは、そういう世界もあり得るというだけのSFでしかなかったものが、昨年のドナルド・トランプの米大統領当選により、本気で可能性のある未来として俄然リアリティを増した。トランプ、キムという何するかわからない二大狂人が核のボタンに手を触れており、さらにプーチンやアサドという独裁者が権力を握っている今、第三次世界大戦は近い将来にあり得ない話ではない。
「ハンドメイズ・テイル」は、女性の懐妊が極端に減少し、いまだに妊娠することのできる女性が一部の支配階級のために定期的にセックス、というかレイプされ、子供を作ることを強いられる世界を描く。子供が生まれなくなる世界というので思い出すのは、「トゥモロー・ワールド (Children of Men)」だ。ただし「トゥモロー・ワールド」ではある時ほぼ完全に女性は妊娠しなくなるが、「ハンドメイズ・テイル」においては、一部の女性はまだ妊娠して子供を産むことができる。この場合、一部の特権階級が、妊娠可能な女性を統制して支配下に置こうとするのは当然だ。
一方あるいは女王蜂のように、子沢山の女性が世の中に君臨する、もしくはアマゾネスのように、女性が男性を放逐するという世界ができてもよかったという気もする。男性の方が肉体的に力があるとしても、最終的に子を産むのは女性なのだから、女性が権力を握るという可能性も、未来なら五分五分以上で実現してもおかしくない。アトウッドが原作を書いた80年代と現在とでは、人々のものの考え方は既に大きく違う。男はバカと考えている女性の数は、近年急激に増加しているとひしひしと感じる。今後のディストピアものは、特に女性が虐げられる性としてクリシェ化していくことは少なくなっていくものと思う。と、「ワンダーウーマン (Wonder Woman)」を見た後では強く感じる。
「ハンドメイズ・テイル」では、妊娠できる女性は支配階級の家のものとして子を産むためだけに存在する。たぶんわざわざ排卵期を選んで所有者とセックスする、もしくはレイプされるわけだが、番組では、その時フレッドにレイプされる主人公オブフレッドを、逃げないようにかそれとも受胎しやすくするためにか、フレッドの妻のセリーナ・ジョイが後ろから抱き抱えるようにしている。これって手前にフレッドが立っていなければ、どちらかというと形としては出産を助けているような姿勢だ。そうすることでセリーナ・ジョイは擬似受胎した気になるとか、家族の一員の気分を味わえるとか、そんなことだろうか。しかし男の立場としては、目の前に妻がいるのに他の女を犯せるかと思うのだが、妻が容認しているのだから夫の方だって構わないのだろうか。単純に3Pしていると思えばいいのか。
ハンドメイズらは四六時中監視下に置かれ、息の休まる暇がないが、その監視システムは、もっぱら監視カメラではない、人の目と口によるものというロウ・テクだ。いったん文明が崩壊に直面した後とはいえ、口コミタレコミよりは、監視カメラを至るところに設置する方が結局は確実安全で安上がりになると思うのだが、為政者側からするとそうでもないのだろうか。むしろ既に過去の話となってしまったジョージ・オーウェルの「1984」の方が、その点ではまだテクノロジーが発達している。その時期をとっくに過ぎてしまっている21世紀に、むしろ客観性という点では問題が多いと思われる人の目と口を介した情報収集が重んじられる。その方がマインド・コントロールとしては有効らしい。人間って進化しているんだかしていないんだか。