Seeking Justice


ハングリー・ラビット  (2012年4月)

高校の国語教師ウィル (ニコラス・ケイジ) は、音楽家の妻ローラ (ジャヌアリー・ジョーンズ) と幸せな家庭を築いていたが、ある時、ローラがレイプされ、半死半生の目に遭わされる。病院でやり場のない怒りを覚えるウィルに、素性のしれない男サイモンが近寄ってきて、相手の男に復讐してやろうかと囁く。その代償は将来、ちょっとしたことで返してくれればいいという。ウィルは魔が差して復讐を頼んでしまい、ローラをレイプした男は撃たれて殺される。そしてそれから間もなくして、サイモンが再度ウィルに接触してくる。ローラのレイプ犯を始末した代償を支払ってもらいたいという。それは、サイモンが告げるある男を殺してくれというものだった‥‥


___________________________________________________________

つい先頃もニコラス・ケイジ主演の「ゴーストライダー (Ghost Rider)」の第2弾、「ゴーストライダー: スピリット・オブ・ヴェンジャンス (Spirit of Vengeance)」が公開されたばかりだというのに、すぐに次の主演作の公開だ。主演作が途切れないことにも感心するが、本当に気になるのは、そのどれもがB級くさい匂いをぷんぷんと発散させているところにある。「ゴーストライダー」はその筆頭だろう。


しかし実は、特にケイジが出る作品がB級くさいというよりも、特にB級に見えるわけでもない作品を、ケイジが出ることによってB級カラーに染めるという印象の方が強い。近年特にその傾向が顕著で、ケイジが出てないならストレートにハリウッド大作になったろうと思える「魔法使いの弟子 (The Sorcerer's Apprentice)」がああもB級くさくなってこけてしまったのは、やはりケイジのせいだろうとしか思えない。


むろん、どんな作品に出ても自分のカラーを残すケイジに独特の魅力があるのは確かで、演技力云々を抜きにして、やはり得難い俳優と言える。ハリウッド大作かインディペンデント作品かの二極化が進む米映画界において、近年忘れ去られた感のあるB級というテイストをいまだに体現できる、数少ない俳優の一人がケイジだ。そしてまた「ハングリー・ラビット」も、最近のその例に漏れない。


「ハングリー・ラビット」が描くのは連鎖殺人、あるいは代理殺人で、要するに交換殺人の変型だ。交換殺人の最大のメリットは、殺す側と殺される側にまるで接点がないため、殺人者および殺す理由が見つかりにくい点にある。誰が、なぜ、ある者を殺したのかわからない。それだけで事件が迷宮入りする確率は段違いに高くなる。


交換殺人だと映画でも小説でも結構例がある。ヒッチコックの「見知らぬ乗客 (Strangers on a Train)」というクラシックがあるし、小説では近年ブレイクした東川篤哉の「交換殺人には向かない夜」というのがあったし、短編でタイトルは忘れたが、麻耶雄嵩や若竹七海、西澤保彦にも交換殺人テーマの作品があった。トリッキーな作品を書く推理作家ならこのテーマに手を染めてないわけがないというくらい、目新しい分野ではない。


「ハングリー・ラビット」はそれを単に交換殺人というわけではなく、代理の者が殺人を重ねていく連鎖殺人にしたところが新機軸だ。とはいえ、聞いてしまうとそういう設定でも過去に誰かが書いたり撮ったりしていなかったかと思ってしまう。要するに、わりと使い古されたというか、歴史のある設定だ。


基本的に交換殺人というのは失敗することを是としている。道徳的に交換殺人が成功ばかりしていたらヤバいというよりも、単純に完璧に見える殺人がどのように破綻していくかの方が面白いからだろう。「ハングリー・ラビット」の場合は、一時的な気の迷いからそういう交換殺人の連鎖の輪の中に組み込まれてしまった主人公を描く。


むろんケイジが演じるのが主人公の高校の英語教師、ウィルだ。私の印象ではケイジからはそういう教師とか学者然としたものはあまり感じないのだが、しかしケイジは「ノウイング (Knowing)」では物理学者だった。知的な雰囲気がなくもないといったところか。話は変わるが、「スリーデイズ (The Next Three Days)」では、ラッセル・クロウが専門学校の英語教師だった。二人のアクション・スターが英語教師という地味というか固い職業の人間で、その彼らが望むと望まざるとにかかわらず、大きな犯罪事件に足を突っ込んでいく。またまた話は飛ぶが、「ハングオーバー (The Hangover)」のブラッドリー・クーパーは小学校の先生だった。身体を張って奮闘する教育者というか、そういう職業の者がどんどん犯罪やアクションに巻き込まれて行くところがミソだ。「闘う教育者」が近年のキー・ワードの一つと言えるか。


ウィルを犯罪の輪に巻き込むサイモンを演じるのがガイ・ピアースで、ケイジ同様これまた微妙なキャスティングだ。ピアースは最近ではまず昨年の「英国王のスピーチ (The King’s Speech)」、HBOのミニシリーズ「ミルドレッド・ピアース (Mildred Pierce)」、3年前の「ハート・ロッカー (The Hurt Locker)」と、なかなか重厚なドラマに出ている。が、ここでの殺人連鎖チェーンの元締めというのは、そういった地に足がついた役とはいささか趣が異なる。ただし、元々はピアースは「メメント (Memento)」みたいな突拍子もない役で芽を出したわけだし、意表をつく珍品豪州西部劇「プロポジション (The Proposition)」ていうのもあった。今回はそっちの傾向に近いと言える。一方、ケイジがどこまでも飄々とB級主演を演じるなら、ピアースの場合、真面目にまともに役に入れ込むあまり、B級にずれていってしまうという印象が濃厚で、正直言ってケイジとピアースをうまく噛み合わさせるのは、非常に難しいと思う。


他にウィルの妻ローラにジャヌアリー・ジョーンズ (「マッド・メン (Mad Men)」AMC)、同僚教師にハロルド・ペリノー (「ロスト (Lost)」ABC)、ローラの同僚音楽家にジェニファー・カーペンター (「デクスター (Dexter)」ショウタイム) と、TV出身の俳優が脇を固めている。カーペンターはつい先頃も「ゴーン (Gone)」に出ていたのを見たばかり。演出はロジャー・ドナルドソンで、前回の「バンク・ジョブ (The Bank Job)」がきびきびと非常によかっただけに、それと比較すると今回はちょっと地に足が着いてないと感じさせるが、元々そういう設定をそれでもうまくB級にまとめたと言えるかもしれない。なんてったって主演ケイジだし。


邦題の「ハングリー・ラビット」とは、作品内で代償報復の了承および完了を意味する符牒のこと。オリジナル・タイトルの「シーキング・ジャスティス」は、あまりにもまんまでセンスが感じられないと思っていた。それに較べれば「ハングリー・ラビット」の方がまだいい。アメリカ公開における「Seeking Justice」は、タイトルで見る気をなくした者が結構いるんじゃないかと思う。ああ、でもそれもB級路線狙いの戦略の一部だったのかもしれない。









< previous                                      HOME

 
inserted by FC2 system