The King’s Speech


英国王のスピーチ  (2011年1月)

ヨーロッパがきな臭くなり始めていた1930年代。ヨーク公アルバート (バーティ) (コリン・ファース) は英王位継承第2位という地位にいたが、幼少時から吃音が抜けず、人前で話すことが大の苦手だった。妻のエリザベス (ヘレナ・ボナム・カーター) は専門医のライオネル・ローグ (ジョフリー・ラッシュ) を探し出し、ヨーク公の吃音矯正にとりかかるが、身に染みついた吃音は簡単には直らない。1936年、父ジョージ5世崩御に伴って兄のデイヴィッド (エドワード8世) (ガイ・ピアース) が王位に就くが、しかし離婚歴のあるウォリス・シンプソン (イヴ・ベスト) と結婚するため退位し、バーティが新国王ジョージ6世として即位する。ナチス・ドイツと戦争の暗雲が立ち込める中、吃音のジョージ6世の最大の任務は、ラジオを通して国民に語りかけることだった‥‥


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かなり昔の話になるが、私は大学入試の時、選択を世界史で受験した。当時の統一の共通一次でももちろん世界史をとったし、私大入試でも世界史で受けた。そのため高3の時は、自分で言うのもなんだが徹底的に世界史を勉強した。大学の卒論を書いた時を除けば、あれだけ根を詰めて机に向かったのは、後にも先にもやはり受験勉強の時だけだ。


むろん、英国王室史だって抑えた。日本の元号は言えなくとも、英国王の在位期間は言えた。「英国王のスピーチ」で描かれている時代も、20世紀ヨーロッパ史の重要なところだから集中して勉強した。在位期間が極端に短かったエドワード8世、その理由となったスキャンダラスな「王位を賭けた恋」、そしてその後のジョージ6世の即位など、今でも結構よく覚えている。


なんでそんな大昔のことをわざわざ持ち出したかというと、それなのに、私はこの映画の骨子であるジョージ6世の吃音のことを、まったく知らなかった。本当に、まったく知らなかった。ほとんど青天の霹靂の初耳だった。しかしジョージ6世の吃音は、この映画の土台である。彼が吃音であったからこそ起こったこと、起こらなかったことが、英国を、世界を動かした。彼が吃音であったことは教科書には載っていなかったかもしれないが、これこそが世界史の骨子であるはずなのだ。私はいったい何を勉強していたのであろうか。私が知っていたことは、エドワード8世がアメリカの夫ある身の女性と恋仲に陥り、王位を捨ててほとんど出奔し、そのため弟のジョージ6世が即位したという、あまりにも散文的な事実の寄せ集めに過ぎなかった。


今でこそまったく逆になってしまったが、20世紀中盤辺りまでは、英国の上流階級は躾けに厳しかった。ほとんど体罰が当然のように行われていた。ちょっとどもったりすると、それを矯正しようという厳しい叱責も当然行われただろう。しかし、あまり厳しい躾けは反発や萎縮を生む。反発はまだしも、委縮は時に心を歪め、行動に障害を起こす。ジョージ6世が幼く、まだバーティと呼ばれていた頃、外交的な兄デイヴィッドと異なって内向的なバーティは、矯正しようとすればするほど吃音はひどくなり、それは終生完治することはなかった。


それでも、まだバーティがデイヴィッドの弟としていられたならよかった。畢竟、王位を継ぐのは王位継承権第1位のデイヴィッドだ。自分に世間の注目が集まることはない。それなのにこの無鉄砲な兄は、よりにもよって夫ある身の女性と恋仲になってしまう。離婚を認めないカトリックからの支持が必須の英国王という立場上、デイヴィッドはその女性ウォリス・シンプソンとの結婚は諦めるか、あるいは英国王の座を諦めるかの二者択一を迫られる。そしてデイヴィッド=エドワード8世は、王位を退いて在野に下る決心をする。


国民が、世界が驚いたろうが、誰よりもプレッシャーがかかったのがバーティだ。エドワード8世が退位すれば、自分が英国王になってしまう。人前に出ることを好まず、人前でスピーチすることを何よりも嫌うバーティが、新国王ジョージ6世として、好むと好まざるとに関係なく、常に人前に出ることを求められるのだ。


いや、これはツライ。吃音でなくたって充分きつい仕事だろうと思う。一番嫌なのは、それが自分が選んだこと、望んだことではなく、それなのにそこから逃げる道が最初からないことだ。配置換えというオプションは最初からない。辞めますとも言えない。吃音だけで済めばまだいい。もっとひどい心の病気になりそうだ。当然、バーティの吃音はひどくなりこそすれよくなる兆候を見せない。バーティと妻のエリザベスは、ほとんど藁にもすがる思いでスピーチの専門家の指導を受ける‥‥


主人公バーティを演じるのがコリン・ファース。ここんところの映画賞の主演男優賞を総なめにしている。昨年、「ア・シングル・マン (A Single Man)」で受賞を逸した経緯を見ても、今回こそはオスカーを獲るのは十中八九確実と見た。バーティをスピーチ指導するライオネルを演じるのがジョフリー・ラッシュで、こちらも曲者ラッシュらしく板についている。控えめに徹するエリザベスを演じるヘレナ・ボナム・カーターもいい。ライオネルの妻マーティを演じるジェニファー・イーリー、エドワード8世のガイ・ピアースなどもよく、ジョージ5世を演じるマイケル・ガンボンは貫禄。


吃音というのは畢竟、音の問題だ。音を正しく発音できるかつっかえるかという問題なのだが、この音の問題にさらに視覚を加え、極めて映画的な演出を見せたのが、トム・フーパー。一昨年のHBOミニシリーズ「ジョン・アダムズ (John Adams)」で、エミー賞の監督賞にもノミネートされている。


映画は冒頭、どこぞの競馬場かなんかでマイクを前に、声が喉の奥に引っかかって出てこず、大観衆を前にほとんど絶句するバーティを描くシーンから始まる。全員の視線がすべて自分に集まっているのに、開いた口から声が出てこない。このプレッシャーたるやいかばかりか。


当時の人は、何も音を発しないラジオの周りに集まって、あっ、だとか、うっ、だとかの破裂音だけが時々聞こえるだけのスピーカーを凝視している。音がないということが、音を強く意識させる。元々音のないサイレント映画では撮れないシーンだ。あるいはチャップリンやキートンだったら、この状況を逆手にとって何やら目新しいことをやってくれたかもしれない。


音というのはほとんど視覚以上に想像力や記憶を刺激する。聴覚だけの方がよりヴィヴィッドに感情に訴えかけるのだ。音楽というものが持つ力もそれに拠る。あるいは、昔よく聴いた音楽を今聴くと、いきなり当時の記憶が眼前に甦る。音にはそういう力がある。もちろん人の声だってそうだ。


その音が喉につっかえて出てこないという状態が、こんなにもサスペンスフルになる。吃音の英国王のドラマだとばかり思っていたら、音が出てこないスピーチというのは正直言ってかなりホラーで、緊張で手に汗握る。怖いくらいだ。アクションなくしてアクション映画を撮るのは不可能だと思うが、それに近いことをやっているような気がする。確か現代作曲家のジョン・ケージが無音の演奏というアヴァンギャルドな試みを行っていたが、こういうことをやろうとしていたのではなかろうか。


個人的には、兄デイヴィッドを演じるピアースより弟バーティを演じるファースの方が歳上に見え、最初、あれ、デイヴィッドはバーティの弟じゃないの? と混乱した点だけは引っかかった。実際1967年生まれのピアースは、1960年生まれのファースより7つも若い。いくらメイクを施してもこの差は埋め難く、この点だけはちょっと無理があった。








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