Ninja Assassin


ニンジャ・アサシン  (2009年12月)

ドイツ、ベルリン。ユーロポールのマイカ (ナオミ・ハリス) は政治家が暗殺された時に必ず同時に多額の金が動いていることから、歴史の裏側で、陰ながら殺しを請け負ってきた暗殺集団があることを確信するが、しかし当然のことながら上司は話をまともに受け合ってはくれない。調査を開始するナオミは、監視カメラに写っていた一人の若い男に興味を抱く。その男こそ、暗殺を請け負うプロのニンジャとして育てられ、組織を裏切ったライゾー (レイン) だった。そして今、秘密の核心に迫るマイカの周りにもニンジャの姿が暗躍し始める‥‥


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冒頭、なぜだか大阪が舞台となるオープニングでは、いきなりこれでもかという血飛沫エログロ・アクション炸裂で、しまった、これは見る映画間違えたかと思った。ハリウッド版ニンジャ映画のアクションを見にきていることは事実だが、たぶんカン違いしている可能性は高いとはいえ、期待していたのは「マトリックス (Matrix)」「グリーン・デスティニー (Crouching Tiger, Hidden Dragon)」的なアクションであって、別に特に血みどろだらだらというスプラッタ・アクションが見たいわけではない。つかみの観客サーヴィスというより、これじゃ思わず見る方も引くぞ。


ただし、スプラッタ全開なのはほとんどこのオープニングだけであって、舞台がベルリンを中心とする本筋に移ると、特に血みどろになるわけではなく、まあ許容範囲だ。しかし、それにしてもハリウッドでもニューヨークでもなく、舞台はヨーロッパ、それもベルリンか。ヒロインのマイカが所属するユーロポールは、まあユーロポールというくらいだからヨーロッパの主要都市なら支所はあるだろうが、ここはやはり「オーシャンズ12 (Ocean’s 12)」同様、ユーロポールが舞台なら、場所は本拠地のオランダになるべきではないのか。ベルリンが舞台のアクションというと、印象としてはどうしても「ボーン・アイデンティティ (The Bourne Identity)」「ボーン・シュプレマシー (The Bourne Supremacy)」、あるいは「ザ・バンク (The International)」が頭に浮かぶが、しかし、なぜニンジャがベルリンなんだろう。


そのベルリンで、さる大物政治家の不慮の死に懸念を抱いたユーロポールのマイカは、上司を無理矢理説得してその裏側に潜む謎の暗殺集団の調査を開始する。しかしそれは彼女自身の身に災難が降りかかることも意味していた。そのマイカを間一髪で救ったのが、抜け忍 (という用語が用いられていたわけではないが) で、現在ではただ一人一味に反旗を翻しているライゾーだった。ライゾーはかつてニンジャの一人として仲間たちと共に修練していたが、淡い恋心を抱いていたくの一 (これまた特にこう呼ばれていたわけではないが) のキリコが脱走を企んで捕まり、殺されたために、仲間や親同然のオズヌ (ショー・コスギ) を信じられなくなったのだ。


だいたい、ニンジャというのは日本人の目から見ても過去の遺物というか、忍術を使って相手を倒す、かなりの部分現実にはありえなさそうな、誇張されたマンガのような存在だ。それを欧米人の視点から見ると、ほとんどエキゾチシズムや神秘主義に溢れた摩訶不思議な存在と映るだろう。


こういう作品をハリウッドで描かせると、なぜだか必ず彼らが修行に精を出す少年少女時代が描かれる。これはもう、ほとんど必ずと言っていい。「G.I. ジョー (G.I. Joe)」にもあったし、今、劇場でもかかるようになったM. ナイト・シャマランの「アヴァター (Avatar)」(ジェイムズ・キャメロンの「アヴァター」ではなく、アニメーション「アヴァター」を実写化した別物) でも、まあ、これは主人公がまだ少年だからとはいえ、やはりそういう修行している描写がある。どうしても、そういう技術を持ち、現在の境遇に至った経緯というのを描かなければならないという不文律があるみたいだ。


そしてそれが和中折衷なのもまるで判を捺したかのごとくである。というか、日本特有のニンジャを描いているはずが、背景はどうみても中国だ。ジャッキー・チェンを代表とするカンフー映画とニンジャが一緒くたになっている。昨年のABCファミリーの「サムライ・ガール (Samurai Girl)」も、日本の旧家のはずが庭は中国風だったりとあり得ない描写があったりしたが、こういうハリウッドの強引さは、知ってはいてもびっくりさせられる。この辺の下調べはその気になれば簡単にできるはずだが、意図的に間違えているとしか思えない。一般的なアジア全般の俳優に仕事をさせる機会があるからと肯定すべきか、世界の独自文化の退廃に繋がると非難すべきか、よくわからない。


実際、主人公ライゾーを演じるのはレインで、コリアン俳優のレインが、若い頃を演じているのは彼ではないとはいえ、どう見ても中国でニンジャの修行をし、ベルリンを中心に世界を股にかけて抜け忍として暗躍する。世界は狭くなったと感心して作品を楽しむことに専心すべきなのだろう。ジョー・コスギがまた堂々と中国的ニンジャの元締めなんか演じているものだから、もうこれだけ異文化が混交していることに異を唱えても詮もないような気になってくる。しかし彼の役名のオズヌ (Ozunu) というのはいったい何だ? 小津ヌ? これまたあり得ないよなあ。


こういう積極的なカン違いはむろん、作り手の気持ちの反映だ。演出は「Vフォー・ヴェンデッタ (V for Vendetta)」のジェイムズ・マクティーグで、彼が描きたかったことは、裏社会に生きる者の美意識、滅びの美学のようなものであることは一目瞭然だ。特に最後の決戦のシーンは、これまでの型のカンフー映画、ジョン・ウー的スロウ・モーションの美学、チャン・イーモウ的スペクタクルとはまた違った舞台的な美学を演出しようと腐心しているのが窺える。どちらかというと連想するのは、確かに工藤栄一、五社英雄、黒澤明辺りの、ケレン満載の日本の時代劇なのだ。


それが当初の目論見通りの効果を得ているかどうかはともかく、ああいういかにも東洋的 (日本的ともやや言い難い) な美学に西洋人のマクティーグが挑戦していることに感心する。ヒロイン役のナオミ・ハリスは黒人というところからも、積極的に人種を入り乱れさせようとした意図が窺える。こうしてグローバズムは進んでいくのだろうと思うし、そこではもうよい悪いという判断が入り込む場ではなくなっていくのだろう。世界はもう既に思ったよりも狭くなっているのかもしれない。


まるで話は異なるが、映画を見て帰る時、ジャージー・シティの目抜き通りであるJFKブールヴァードを車で走っていて、目の前で2台の車が接触しそうになったのを目撃した。片側2車線ある道路の左側を走っていたセダンが、右側の車線を走っていたSUVを追い越そうと加速した。その瞬間、SUVは車線を左に変えようと、ほとんど指示器を左に出したのと同時に左側車線に入ってきた。 セダンがSUVの死角に入ったために、ミラーでは見えなかったのだと思う。直接目視を怠ったに違いない。


当然アクセルを踏んで加速の真っ最中だった左のセダンは止まれない。ダメだ、当たった、と思った瞬間、セダンはするっと前に抜け、SUVはするっと左車線に無傷で入ってきた。両者の間は1cmも開いてなかったと思う。セダンもSUVもびっくりしただろうと思うが、真後ろで見ていたこちらも驚いた。助手席の女房と一緒に、二人であっ、と声を上げた瞬間に、何事もなかったかのように2台の車が前を走って去っていった。


要するに何が言いたいかというと、まるで忍術かなんかでばかされたかのような気になったのであった。映画みたいだった。二人で特撮でもああはうまく撮れないね、今のと「ニンジャ・アサシン」とではどちらが上か、臨場感では今のに軍配が上がる、しかし映画ならもっとスピード感を高めることができたかも、などと話しながら帰途についたのであった。








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