V for Vendetta   Vフォー・ヴェンデッタ   (2006年3月)

独裁制が敷かれている近未来ロンドン。親が政府によって殺されたため反政府寄りの心証を持つイーヴィ (ナタリー・ポートマン) は、戒厳令下の夜、独自に政府に戦いを挑む、仮面を被った謎の人物V (ヒューゴ・ウィーヴィング) の知己を得る。TV局で咄嗟に警察に追われるVを助けたイーヴィは自分も怪我をし、Vの隠れ家に連れ込まれる。Vはいったい何者なのか、信用できるのか、イーヴィは半信半疑ながらVの計画に加担するが‥‥


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「Vフォー・ヴェンデッタ」は、「フロム・ヘル」で知られるマンガ家のアラン・ムーアの同名グラフィック・ノヴェルの映像化だ (実際にはデイヴィッド・ロイドとの共著である。) とはいえ今回に関する限り、「Vフォー・ヴェンデッタ」はムーア作品としてよりも、プロデュースして脚本を書いているウォショウスキー兄弟作品としての方がより知られている。なんといっても「マトリックス」3部作はその後のハリウッドCGを完全に変えてしまうほどインパクトがあったから、そちらの方に目が向かうのも、これまた致し方ない。


一方、こういう大きな近未来SF作品としては、私は、実は主演のナタリー・ポートマンはちょっと弱いのではないかと思っていた。彼女は特に運動神経がいいとも思えないし、アクションがうまいようにも見えないし、ボディ・ラインは華奢すぎる。「スター・ウォーズ」では頭にでかい被り物をしていつも重ね着しており、別に本人がアクションをするわけではなかったからよかったが、「V」ではそれなりにアクションもするんだろう? 大丈夫かなと思っていた。


そしたら、実は「V」の主人公はポートマンではなく、Vその人であった。Vは素性の知れない、いつも仮面を被った謎の男として登場するのだが、スーパーマンやバットマン、スパイダーマンのように平時は市井の人々と同様に生活しており、いざとなるとコスチュームに着替えて登場するというわけではない。いつも、常時仮面を被った謎の人間として現れる。要するに、それだと見る者にとって感情移入がしにくいために、彼の側面、ものの考え方をよく知らしめるための媒介者としてポートマンは登場するのだった。なんだ、私はまたポートマンがVと一緒に悪人をばったばったとなぎ倒す作品かとばかり思っていた。


こういう、主人公の本当の姿が見る者に隠されたままの作品は、どうしても主人公に対して感情を移入させにくい。その人本来の姿が見えないのだから当然だ。そのため近年のアメリカのスーパーヒーローものは、スパイダーマンやバットマン等、日常生活も描くものが多い。謎に包まれているスーパーヒーローの隠された真実を知っているという点が、視聴者心理をくすぐるのである。それでもVはどうやら仮面をはずすわけにはいかない理由があるらしいことがだんだんわかってくる。しかし、素顔を晒さず観客に感情移入させることは難しい。そのためにこそポートマンが必要になるのだ。


実はポートマンは、これまでに多くの作品でそういう役をしていることに気づく。そもそも彼女がロウ・ティーンの時にデビューした「レオン (The Professional)」にしてからが、常に人との接触を避けるプロのスナイパー (ジャン・レノ) の、向こうの世界とこちらの世界とを繋ぐ媒介者であったわけだし、「スター・ウォーズ」では、彼女がアナキンがダーク・ワールドに堕ちるのをなんとか引き止めていた安全弁の役を果たしていた。


そういうSFやアクションとは無縁の「終わりで始まりの4日間 (Garden State)」(こんな邦題になっていたのか!) においてすら、主人公のザック・ブラフはポートマンがそばにいないと何もできなかった。彼女はロウ・ティーンの時から、常に誰かの手助けをする媒介者としてそこにいたのだ。あるいは、決してふくよかな体格でもないくせに、もしかしたら彼女が体現しているものは、人々を許し愛す母性なのかもしれない。当然その任務は「V」でも変わらず、彼女がいなければVの使命も考えも我々には伝わらない。


そのVを演じるのが、「マトリックス」と「ロード・オブ・ザ・リングス」という近年最も話題になったSFアクション三部作に出ているヒューゴ・ウィーヴィングで、これは難しい。始終仮面をつけているという設定上、彼は常に声とアクションのみでキャラクターを造形し、エモーションを表現しなければならない。これがどんなに難しいかは考えるまでもないことで、しかもうまくそれをやってのけても、最終的に誰も彼の顔を覚えてくれるわけでもない。先週見た「リバティーン」では、ほとんど本人とわからないくらいの爛れ顔厚塗りメイクで観客を圧倒したジョニー・デップの熱演は誉められても、本当に本人とはわからないVの場合、誰もウィーヴィングの演技よかったね、などとは言ってくれないだろう。


実際、本当に彼がほとんどのアクションをこなしているかは疑問で、時々、彼ってこんなに背高かったっけ? と思えたりもする。最近、似たような例で思い出すのは「キングダム・オブ・ヘブン」のエドワード・ノートンだが、まだノートンの時の方が、顔はまったく見せなくともさすがノートン、といった声を聞いた。どんなに爛れて本人とわからない顔でも、最後に一瞬、素顔 (と言えるのか?) がスクリーンに映ったせいではないかと思うのだが、今回、逆光のロング・ショット以外ではまったく本人の顔を見る機会のないVの場合、ほとんど観客がVに感情移入するチャンスを逸している。基本的に観客は、Vに心を寄せるポートマンに感情移入しているという構造の方が近いだろう。ポートマンがVを信ずるに足ると思っているからこそ、我々もVを信用するのだ。


実は「V」はアクション大作にしては、かなりメッセージ色が強い。その辺も「マトリックス」を彷彿とさせるわけだが、ウォショウスキー兄弟にとってはこういう対権力意識は不可避の構成要素のようだ。いずれにしてもそのため、独裁制下の人々の生活といったものが随所に挟まる。とはいっても、それはせいぜい3世帯か4世帯程度の街中の描写に留まるわけだが、それだけで全ロンドンを代表させなければならない。これを下手くそな監督が演出すると、いきなり世界に人間は2、30人しか住んでいないの、的な印象を与えてしまうわけだが、うまいやつが手がけると、ちゃんとその他の世界も同様なんだろうと感得させることができる。その辺を一応ちゃんと抑えている演出のジェイムズ・マクティーグは、その他のアクションやエモーションの描写と合わせ、なかなかのもの。基本的に表情の見えない仮面の下のエモーションを紡ぐのは、そう簡単なことではないだろう。


マクティーグは、「マトリックス」や「スター・ウォーズ: エピソード2」で助監督を務めており、今回が一応監督としてクレジットされる最初の作品とはいっても、既にそれなりのキャリアはあったものと見ておいていいだろう。実際、これだけ大きな作品を初監督作で任せられて一応それなりに楽しめる作品に仕上げたのは大したもので、はっきり言って予想以上に面白かった。クライマックス・シーンなんて拍手ものだった。あの終わり方だとパート2がなさそうなのが惜しい。






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