The Master


ザ・マスター  (2012年9月)

ホアキン・フェニックスというと、どうしても一昨年だかのデイヴィッド・レターマンがホストのCBSの深夜トーク・ショウ「レイト・ショウ・ウィズ・デイヴィッド・レターマン (Late Show with David Letterman)」を思い出してしまう。ゲストとして呼ばれたそのエピソードで、フェニックスはあろうことが満面髭面で登場、レターマンと決定的に噛み合わない会話をして、白けるを通り越した面白さを提供、そして役者を廃業してミュージシャンになると宣言した。


後日、これはフェニックスとケイシー・アフレックが共同で製作している疑似ドキュメンタリー「アイム・スティル・ヒア (I’m Still Here)」において、フェニックスが演じているキャラクターだったことが判明、要するにフェニックスは意図的にレターマンをはぐらかしていた。約1年半後フェニックスは再度「レイト・ショウ」に現れ、ちょっと過ぎたいたずらを詫びた。


その時もレターマンは、オレは騙されたとしてフェニックスをねちねちといたぶっていた。この話はかなり話題になったので、騙されたとはいえフェニックスだけではなく、レターマンにとってもそれなりのプロモーションになったと思う。


しかし今回、「マスター」公開に当たり、フェニックスは借りのある「レイト・ショウ」にゲストとして来なかった。実際に呼んだけど来なかったのか、それとも特に呼んだわけでもなく、単にレターマンがギャグ・ネタとして使用しているのか、その辺の詳細は知らないが、レターマンは、過去に自分は騙された貸しがあるのに、フェニックスは「レイト・ショウ」に来なかった、と、またちびちびとフェニックスをいびりネタに使用していた。レターマンは、数年前にNBCが「トゥナイト (Tonight)」のホスト交代で揉めた時も、自分はまったく関係ないくせにジェイ・レノをねちねちといたぶっていたのが思い出される。かなりしつこい。


この時を除けば、フェニックスを見るのは2007年の「アンダーカヴァー (We Own the Night)」以来だ。ジェイムズ・グレイの「アンダーカヴァー」はかなり印象的な作品だったが、あれから既にもう5年になるのか。実際、その間フェニックスは結構役者として煮詰まっていたみたいで、今回読んだインタヴュウによると、「アイム・スティル・ヒア」は、自分を開放するのに必要だった、ということらしい。確かに「アンダーカヴァー」にせよ「ウォーク・ザ・ライン (Walk the Line)」にせよ、フェニックスは思い込みが激しそうだという印象は受ける。いつもこういうのめり込むタイプの演技を続けていたら、煮詰まるのも無理はないかなと思う。


しかし、そのフェニックスが今回「マスター」で演じる主人公フレディは、これまでのフェニックスの集大成的な思い込み、のめり込み世界なのだ。なんせ役柄が人生に意義を見失った挙げ句、カルト教団に拾われ、主宰者の右腕として啓示を得て生活を共にするアル中という、とんでもないキャラクターだ。自分を開放するために「アイム・スティル・ヒア」をやる必要があったのではなく、結果としてより一層深いところに到達するために、いったん開放する必要があったというのが本当のところという感じだ。



海軍で技師として働くフレディ (フェニックス) は、半分壊れたような状態で第二次大戦の終戦を迎える。戦後は機械に強いことを利用してポートレイト・カメラマンとして働き出すが長くは続かず、次に働き始めた農家でも趣味の密造酒を飲ませて老人を瀕死にさせ、追い出される。


ほとんどホームレスになったフレディが紛れ込んだのは、カルト教団「真理 (The Cause)」が所有しているヨットだった。あたかも主宰者ドッドの一人娘が結婚しようとしており、人々はお祭りに浮かれていた。ドッドはフレディが作る密造酒を気に入り、フレディに催眠療法を施す。心の中に捕らえがたい闇を抱えたフレディをドッドは強く気に入り、「真理」の布教活動に同行させる。しかしほとんどアル中で発作的に暴力を振るうフレディは一部からは危険視され、ドッドの妻ペギーもそれを懸念していた‥‥


ポール・トーマス・アンダーソン作品の主人公は、皆ぎりぎりだ。「パンチドランク・ラブ (Punch-Drunk Love)」でアダム・サンドラーが演じたバリー、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド (There Will Be Blood)」でダニエル・デイ-ルイスが演じたダニエルもぎりぎりの世界に生きている。というか、時として向こう側の世界に生きている。それは今回のフレディも変わらない。


そのため、彼らを描くアンダーソン作品は、いつもカルトや宗教めいたものが絡む。作品自体が神話めいたりする。そしたら今回の「マスター」は、作品タイトルからしてそのカルトの主宰者だ。ただし彼が主人公というわけではなく、そのマスターにつかず離れずで行動を共にする愛弟子、というかほとんどユダのような存在フレディが主人公だ。


彼らは皆、内側に秘めたる衝動、破壊願望を持っている。そのため時として暴力が噴出する。彼らの暴力は、アクションとしての暴力ではなく、生きていく上で時として必要なガス抜きとして機能するので、暴力が起こる時は一気だが、止む時は徐々に、風船がしぼむように徐々に沈静化に向かう。たぶん暴力に訴えてもほとんど浄化するものはなく、むしろ自己嫌悪が増すだけにしか見えないような、やるせない暴力だ。そこにはアクションから来る爽快感など微塵もなく、ただただ疲弊感がつきまとう。


これではフレディがアルコールに逃げるのもしょうがあるまいとも思う。一方で、フレディは自分の行動を計算してもいる。もうアルコールは飲まないとペギーに嘘をついてドッドと行動を共にするフレディは、最初にドッドが感じたように、一筋縄ではいかない、面白い、あるいは、深い、あるいは、危ないやつだった。


とにかくフェニックスは熱演なのだが、ドッドを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンも、相変わらずの胡散くささをばら撒いて見事。ドッドの妻ペギーを演じているのはエイミー・アダムスで、先週、「人生の特等席 (Trouble with the Curve)」でクリント・イーストウッドと共演してベイスボール好きな父思いの弁護士を演じていたと思ったら、この変わり身の速さだ。ベイスボールといえば、ホフマンも昨年「マネーボール (Moneyball)」に出ており、まったくスポーツとは縁のなさそうな二人が、両方ともベイスボール映画に出ているというのが不思議な気がする。


そういえばアダムスは「ダウト (Doubt)」でもホフマンと共演していた。そこではアダムスはホフマンを疑っていたはずなのだが、「マスター」ではその男の妻か。どこから見ても胡散くささの塊であるホフマンよりも、可愛い顔して時にきつい言葉を発し、騙されていそうに見えて実はちゃっかり裏で実をとっているみたいなしたたかさがあったりするアダムスの方が、もしかしたらもっと食えない人物かもしれない。あるいはやっぱり似たもの夫婦か。


後半出てくる熱心な信者役のローラ・ダーンは、昨年HBOの「エンライテンド (Enlightened)」で、職場の男に騙されて精神的なものに逃げる、みたいな主人公を演じていた。どうも新興宗教にのめり込みやすそうに見えるらしい。実際そう見えそうなところが、デイヴィッド・リンチから好かれる理由でもある。


「パンチドランク・ラブ」も「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」も「マスター」も、一応クライマックスはあって話は終わりを迎えるが、そこには長い物語を終えたカタルシスはあまりない。これで肩の荷をやっと降ろせるというような、疲労感、脱力感の方が強い。一応ハッピー・エンドで終わった? 「パンチドランク・ラブ」ですらそうだった。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」は悲劇だし、「マスター」は、うーん、どうなんだろう。


アンダーソン作品はどんどん物語を語るということだけに向かい、物語のカタルシスというものには注意を向けなくなっているように思う。起承転結の起と結がなく、承と転だけが延々と続いていくという感じだ。そのためフレディは必然的に流れ者になるし、ドッドと邂逅した後も、一緒に布教活動のため各地を転々として定着しない。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の場合は、まだ、これで終わりという明らかな結末があったが、「マスター」の場合は上映が終わっても、実はあれで本当に終わりなの、まだ続きがあるんじゃないかという気にさせる。フレディはその後いったいどうなったのか?









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元海軍兵のフレディ (ホアキン・フェニックス) は、第二次大戦後、生の意味を見失って、職を転々としてほとんど放浪者になっていた。ある時フレディは泥酔した挙げ句、カルト教団が所有するヨットに乗り込んでしまうが、教団の主宰者であるドッド (フィリップ・シーモア・ホフマン) は、フレディに同行を許可する。機械に強く、密造酒作りに長けたフレディとドッドはウマが合い、フレディはいつの間にかドッドの右腕として行動するようになる‥‥


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