Walk the Line   ウォーク・ザ・ライン  (2005年11月)

南部の決して豊かではない綿花農家に生まれたジョニー (ホアキン・フェニックス) は、成長して軍隊経験やセールスマン稼業を経験し、ヴィヴィアン (ジニファー・ゴールドウィン) と結婚して子供ができてからも、歌うことを忘れたことはなかった。生活が貧窮して二進も三進も行かなくなった時、ジョニーは決心して録音スタジオのオーディションを受ける。オリジナルの曲が評価され、ツアーに繰り出したジョニーは瞬く間に人気を獲得するが、一方でヴィヴィアンとの距離は開いていくばかりだった‥‥


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昨年の「レイ」に引き続き、この時期に音楽を主題にしたドキュドラマの登場だ。しかもカントリー界の伝説的存在であるジョニー・キャッシュ、カントリーという音楽をまったくと言っていいほど知らない私ですら知っている数少ないカントリー・シンガーの一人であり、唯一、確かにこの男なら聴いてもいいと思えるただ一人のカントリー・シンガー、ジョニー・キャッシュのドキュドラマである。


レイ・チャールズ同様私生活にも問題が多く、ドラッグ、女性問題、親子の確執といったドラマの定番が最初からセットになって組み込まれているとなれば、これはもう、こちらも「レイ」並みの評判と注目は最初から約束されていたも当然だ。実際、主演のホアキン・フェニックスが自分自身で歌も歌っての熱演となれば、これはもう外野もアカデミー賞当確かなどと騒ぎだす始末だ。


まあ、こちらは面白い映画さえ見れればそれでかまわないので、そのことに文句を差し挟む筋合いはまるでないのであるが、しかし、昨年もこの時期、いかにもアカデミー賞狙いの実在の人物を描いたドキュドラマが多数公開されたことを思い出すと、またか、と思ってしまう。特に「レイ」のジェイミー・フォックスが実際にアカデミー賞を取った記憶もまだ新しい翌年の出来事であるだけになおさらだ。今後数年は、著名シンガーのドキュドラマの製作禁止令を出すべきじゃないか。


とまあ愚痴を言いたくもなるが、しかし、こういう元々興味深い人物を描く作品は、よほど処理を誤らない限りストーリーとしては面白くならないわけがない。もちろん、だからこそ見るこっちとしては、安易、インチキと言いたくもなるわけだが。レイ、キャッシュなんて続くと、さて、そろそろ鬼籍に入って映画になりそうなスーパースターは誰だろうかなんて考えたりしてしまう。


それとは別に、演ずる方にとっては、その人物をよく知っていたり実際にファンだったりした場合、力を入れて演じやすいということはあろう。そのことがまた一概に作品をよくする理由にはならなかったりもするのだが、はまった場合はかなり強烈な磁力を発散させるのはこれまた周知の通りで、だからこそドキュドラマは安易と思っている私でも、やはりついついふらふらと見に行ってしまう。しかも今回はこれまではどちらかというとバイ・プレイヤーとしての印象の方が強かったホアキン・フェニックスの、たぶん最初の大役、しかも本人が歌っての熱演ということで、やはり見逃し難い。さらにこないだ、やはりほとんど知っていなかったボブ・ディランの業績をマーティン・スコセッシがまとめた「ノー・ディレクション・ホーム」を見て感銘を受けただけに、やはり、ドキュドラマでも特に音楽がテーマの作品は見といて損はないという気持ちが強かった。


とはいっても上述の通り、私はほとんどカントリーには無縁で、ほぼ唯一知っているキャッシュにしても、代表的な曲をいくつか知っているに過ぎない。それもリアル・タイムに聴いて身体に馴染んでいるというよりは、どちらかと言うと懐メロとして知っているに過ぎない。「ウォーク・ザ・ライン」では、売り出し中のキャッシュがエルヴィス・プレスリーやジェリー・ルイスと一緒に巡業に出るのだが、どちらかというとまだそちらの方が知っている。要するに自身が当時映画作品に出ているわけではないキャッシュの場合は、本当に耳にする機会があまりなかった。


しかし、私は数年前に、一時低迷したキャッシュが私生活の悩みや困惑を振り払って復活する契機となった、ほとんど伝説的語り草となっている1969年のサン・クエンティン刑務所での慈善コンサートの模様を収録したヴィデオがマイナー・ケーブル・チャンネルのトリオで放送されたのを見ており、さすがにこれにはぞくぞくさせられた。たぶんこの番組はアメリカ人でもほとんど見ている者はいないと思うからなかなか自慢なのだが、暴動が起こりかねないというので周りをライフルを持った警備が固め、囚人らの足踏みやヤジが飛び乱れる中、危ないジョークを連発しながら歌うキャッシュは、彼をまったく知らない私の目から見ても格好よかった。なんだ、マンガの「昴」の刑務所公演の話はこれをパクっていただけかと知った。


そしたら当然というか、キャッシュのキャリアで一つの頂点とも言えるこのコンサートが、「ウォーク・ザ・ライン」では作品のクライマックスとして据えられている。冒頭、刑務所でコンサートを始めるキャッシュの姿から物語は始まり、そして幼い頃への回想と話は繋がっていき、彼の半生を描いてまた話は刑務所でのコンサート・シーンに戻ってくる。いかにもの構成だが、これだけ有名なコンサートなんだから、確かにこれ以外の構成は考えにくい。たぶん誰がキャッシュのドキュドラマを作ったって、話のクライマックスはこのコンサートになるだろう。


他に話の作り方の点で私が最も気になったのは、キャッシュと最初の妻ヴィヴィアンとの距離のとり方である。もちろん世の人々がキャッシュと対にして覚えている女性といえば、最初の妻であり、キャッシュとの間に何人もの子供を設けたヴィヴィアンではなく、二番目の妻であり、本人もゴスペル/カントリー界のヴェテランであったジューン・カーターに他ならない。キャッシュにとってジューンは幼い頃からのアイドルであり、最終的に強引に押して押してジューンのハートを射止めたキャッシュの行動は、ある意味微笑ましいとすら言えるが、もちろんキャッシュには既にその時ヴィヴィアンと子供たちがいた。


当然のことながらその辺のキャッシュの行動をどう描くかで、キャッシュは極悪人にも恋に一途な純情な人間にも見させることが可能だ。それで結局映画がとった策は、なし崩し的に徐々にヴィヴィアンを描かなくするというもので、後半、キャッシュとジューンの仲が接近していくと、最初の方こそ苦しむヴィヴィアンがいるが、いつの間にやらいなくなる。後はキャッシュとジューンの関係のみに焦点が結ばれるわけだが、要するに、ここを描き込むとキャッシュが悪人になりすぎるのを嫌ったからという感じが濃厚だ。


これはたぶん、アメリカ人にとってジューン・カーターという人物がジョニー・キャッシュと常にセットになってとらえられていることと無縁ではなかろう。人がジョン・レノンを思い出す時、そこに常にヨーコ・オノの名前が付随しているのと同じで、アメリカ人にとっては、キャッシュは偉大なシンガーだったが、同様にジューンも優れたシンガーであり、そのキャッシュを支えたすばらしい人間、という認識が一般に浸透しているように感じる。要するに、映画の後半、ヴィヴィアンはなし崩し的に消えていき、ジューンが当然のようにそこにいるのは、製作上の方便だけではなく、一般大衆がそれを欲しているからとも言える。


さらにそのカーターを演じるリース・ウェザースプーンがフェニックスに負けず劣らずのいいできで、彼女がこんなに歌えるのも知らなかった。どちらかというとラヴ・コメ路線で人気のあるウェザースプーンは、私はほとんどまともに見たことはないのだが、出番は特に後半に固まっているに過ぎないのにもかかわらず、時として主人公であるはずのキャッシュその人よりも、カーターに肩入れしていたりする。誘惑の多い業界でキャッシュのようにドラッグに溺れることなく、さらに最終的にキャッシュを支えるカーターの芯の強さ、潔さみたいなものをウェザースプーンが非常にうまく体現しており、後半はほとんどキャッシュの物語というよりカーターの話のように感じるくらいだ。


たぶん、特にディラン同様メッセージ色の強いキャッシュの歌は、アメリカ人にとっては、私が感じるのよりも何倍も強く訴えるものがあるに違いない。だからこそ彼宛てに刑務所から何通もファン・レターが届くし、それが最終的に実現もする。たぶん、その根っこのところで私は決定的にこの作品の何かをつかみ損ねているような気がする。それはきっとアメリカに生まれていないとわからない何かなのだろうと思う。そのことを特に悔しいとは思わないが、昔キャッシュの歌を聴いてないことに対しては、ちょっと損したような気がするのもまた事実なのであった。






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