Doubt


ダウト -あるカトリック学校で-  (2009年1月)

1964年ブロンクス。カトリック教会付けのセント・ニコラス中学校の校長、シスター・ボーヴィエール (メリル・ストリープ) は頼りになるが厳格な性格で、生徒からは好かれているが規則にルーズなフリン神父 (フィリップ・シーモア・ホフマン) をあまり快く思っていなかった。ある時、フリン神父がなにかと親身になって世話を見ていた黒人生徒の素行がおかしくなり、同時にシスター・ジェイムズ (エイミー・アダムス) がフリン神父の不審な言動を見ていたことから疑心暗鬼になり、シスター・ボーヴィエールに相談する。シスター・ボーヴィエールはフリン神父に行動を慎むように要請するが、しかしフリン神父はそれを越権行為として反発、二人の間は一瞬即発の状態となり、間に挟まれるシスター・ジェイムズもまた苦悩する‥‥


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2004年に幕を開け、トニー賞のみならず’ピュリッツァ賞までも受賞した話題の舞台 (邦題「ダウト 疑いをめぐる寓話)」の映像化。原作者のジョン・パトリック・シャンリーが自身でメガホンもとっている。厳格なカトリックの学校の校長と、自由な気風をそこに持ち込もうとする神父、その二人の間に挟まれて苦しむ若いシスターの三つ巴の対立、確執、そして疑惑を描く。


60年代ブロンクス。厳格な規律が基本のカトリック系学校においては、礼儀作法は躾けの要であり、それこそが教育の要諦であった。校長のシスター・ボーヴィエールは、その規律を乱すものを最も毛嫌いしていた。一方、フリン神父はそういう旧態依然の学校に新しい息吹きを持ち込みたかった。彼は当時まだ珍しかった黒人の生徒がいじめに遭わないよう、特に気をつけて彼をかまっていたが、それはスタンド・プレイを好まないシスター・ボーヴィエールの目には快いものとして映ってはいなかった。


シスター・ボーヴィエールにとっては、フリン神父が爪を切らないのも、芯先を削る必要もない怠惰なボール・ポイント・ペンを使うのも気に入らなかった。ある時、フリン神父が特に親身に面倒を見ていた黒人生徒の言動におかしな点が見られるようになる。その生徒は授業中にフリン神父に呼び出しを受けたり、神父の元から帰ってきた時にアルコールの匂いを漂わせたりしていた。彼の担任のシスター・ジェイムズは心に疑惑がもたげるのを禁じ得ず、シスター・ボーヴィエールに相談する。


シスター・ボーヴィエールはフリン神父を呼び出して詳しく話を聞こうとするが、しかし神父は個人的なこととして頑として話を突っぱねる。果たしてフリン神父はいったい少年と二人きりで何をしていたのか。シスター・ボーヴィエールとシスター・ジェイムズの心の中には神父に対する疑惑がむくむくと頭をもたげてくるのを抑えようがなかった‥‥


この戯曲が近年のカトリック、プロテスタントを問わない神父、牧師による年少者に対する数々の性的な虐待事件に想を得ているのは確実だろう。本当に、人を守り教えを説くはずの聖職者の非道振りは目も当てられないほどで、いったん陽の光が当たり始めると、ここでもあそこでもという感じでわらわらとあらゆるところからその犠牲者が現れた。そのことですら大問題なのに、「ダウト」はさらに60年代、まだほとんど黒人生徒がカトリックの学校にいない時に、彼を特に目をかけていた神父がいたという設定で、白人神父による黒人生徒の性的虐待を匂わせ、その疑惑で話を引っ張る。


話の中心となる主要登場人物は3人、疑惑の的となるフリン神父、彼と対立するシスター・ボーヴィエール、その二人の間に挟まれて苦悩する、まだ教師としては新米のシスター・ジェイムズで、フリン神父にフィップ・シーモア・ホフマン、シスター・ボーヴィエールにメリル・ストリープ、シスター・ジェイムズにエイミー・アダムスという布陣。3人とも非常によいできで、舞台がカトリックの学校という閉じられた世界であることも手伝って、緊密な空間内での濃密な演技合戦という感触を濃厚に醸し出している。


特にシスター・ボーヴィエールを演じるストリープはどの媒体からも誉められているわけだが、実際にこれだけやれるのは彼女くらいしかいまいと思える圧倒的な説得力で役を演じている。神父に疑惑を持ち、その疑惑だけで行動を起こすシスターという役柄は、ともすると観客に反感をもたれかねないが、厳格で規律一辺倒という反面、歳老いたシスターたちの面倒もよく見るという一面も見せ、自分が正しいと信じていることに准じるというものの考え方が行動にしっかりと現れているので、厳しいがまた信頼もできる人間像をちゃんと定着させている。


一方のフリン神父を演じるホフマンも、こちらは上辺のものの当たりはいいが、裏で何をしているかわからないという微妙なうさんくささはいつも通り。特に今回は立場を利用してまだ年端も行かない少年にいたずらをしているのではないかと疑惑をもたれる役どころで、これはもう「ハピネス」での危ないおっさんを想起させる。前歴があるだけに、今回もこいつならやっていそうだとつい思ってしまう。彼に対する疑惑は根拠のないものではないのだ。


この二人に挟まれる新米教師シスター・ジェイムズに扮するエイミー・アダムスもいい。基本的にフリン神父に対する疑惑を最初に持ち、それをシスター・ボーヴィエールに相談することで疑惑を限りなく黒に近い心証を与えてしまうのは、ひとえに彼女のせいなのだ。神に近づこう、正しいことをしようという前向きの気持ちが、逆に暗雲を投げかける心の弱さがうまく出ている。ただのコメディ女優ではない。


基本的に話はこの3人を中心に展開するが、忘れてならないのが、実質上彼らの確執の中心となる黒人少年の母を演じるヴィオラ・デイヴィス。自分の息子が性的虐待の対象になっているのかもしれないが、しかし今波風立てるより、あと半年経てば息子は卒業して新しい世界が開かれる。立場の弱い黒人にとって、最も大切なのはそのことだ。だからシスター・ボーヴィエールの告発にもかかわらず、ほっといてくれと言い、シスター・ボーヴィエールはそのことが信じられない。デイヴィスの登場は基本的にこの1シーンだけのなのだが、強い印象を残す。


しかしやはり、その中でも突出しているのはストリープだろう。最初にシスター・ジェイムズがフリン神父に疑惑を持ってシスター・ボーヴィエールのオフィスに相談に行く時、オフィスの灯りの電球がぱんっと割れる。シスター・ボーヴィエールはちらとその電球を見上げて「見なさい、あんたが割ったのよ (Look at that. You've blown out my light.)」とのたまう。その後また同様のシチュエイションでまたまた同じ発言をするのだが、その時の表情、間合い、雰囲気、もう背筋ぞくぞくものでたまらない。それだけでシスター・ボーヴィエールという人間の性格や内面、ものの考え方をしっかりと観客にわからせる。演出力ではない、演技力なのだ。



(注) 以下結末に触れています。


とまあ非常に見応えのある演技合戦を提供するこの作品が、その演技陣が絶賛を浴びていても、作品自体がその話題性に見合うだけの賞の対象となったり誉められているわけではないのは、シスター・ボーヴィエールとシスター・ジェイムズが持つ疑惑が疑惑のままで終わってしまい、フリン神父が実際に何をしたかがわからないまま映画が終わってしまうという点にあると思われる。観客を引っ張る最も重要な謎の部分が、観客の想像や理解、こうであって欲しいという希望に委ねられたまま終わってしまうのだ。「ダウト」は役者の演技を楽しむ作品であって、謎解きや起承転結が用意されているわけではない。


この終わり方は明らかに観客を選ぶだろう。私も、スクリーンにクレジットが流れ始めると、で、フリン神父はいったい黒だったの、白だったのと一瞬唖然とした。これで終わりなわけ? 前任の学校でもなにか問題を起こしたというフリン神父、感触は限りなく黒に近い灰色なのだが、もちろんだからといってそのことはどんな判断も正当化しない。結局わからないままなのだ。なんにでも黒白つけたがるハリウッド映画において非常に珍しい幕切れであり、だからこそ印象に残るとも言えるが、しかし、こういう作品だからこそ黒白つけてもらいたかった。この点を消化不良ととるかあとを引く余韻ととるかで作品に対する判断は大きく変わってくるだろう。


私は、出演者の演技は楽しんだし、まあいいかとなんとなく鷹揚に構えていたのだが、うちの女房は、これで終わりってのはないんじゃないの、と痛く不満顔だった。実際この終わり方だけは、映画より舞台の方でより効果的なような気はしないでもない。最後、自分自身が自分の疑惑に屈したとして崩れ落ちるシスター・ボーヴィエール。場内の明かりが消え、反転。次に灯りがともった時には舞台上で出演者が勢揃いして、盛大な拍手に対して客にお辞儀をして返す。確かにこの作品は、舞台劇としての方が最も映えるだろうというのは言えると思う。








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