There Will Be Blood   

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド  (2008年2月)

19世紀末期、ダニエル・プレインヴュウ (ダニエル・デイ-ルイス) は銀山で銀の発掘に従事していたが、そこでは銀よりも石油が出ることに気づき、石油発掘に転身する。ビジネスの世界でのし上がるためには何事も辞さないダニエルは、オイル・マンとして頭角を現し始める。ある時ダニエルを訪れた青年 (ポール・ダノ) は、自分の家がある土地には石油が出るとダニエルを勧誘する。ダニエルは死んだ同僚の息子で、今は自分の息子として育てているH.W. (ディロン・フリージャー) と共にその土地に赴く。そこに無尽蔵の石油が眠っていることを確信したダニエルは、ありとあらゆる手を使って土地を手に入れることを画策し始める‥‥


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だいたい毎年、年末から翌年頭にかけてアカデミー賞狙いの話題作、大作、評価の高い作品や自信作が公開される。そしてアカデミー賞に至るまでに各業界関係賞によって本命や対抗という位置づけが確立されるが、これまでのそういう経緯を見るに、今年のアカデミー賞は作品賞は「ノーカントリー (No Country for Old Men)」「フィクサー (Michael Clayton)」の一騎打ち、穴が「ジュノ」という感が強い。そして男優賞に限ると、たぶんこれしかないだろうと言われているのが、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」のダニエル・デイ-ルイスだ。


当初は「フィクサー」のジョージ・クルーニー、「告発のとき (In the Valley of Elah)」のトミー・リー・ジョーンズあたりも候補に入っていたが、ここへ来てもう主演男優賞はデイ-ルイスで決まりだろうとほとんど何の媒体を見ても当確扱いになっている。そして実際作品を見ての私の印象を言うと、もう下馬評通り、デイ-ルイスがとるのは間違いないだろう。私が投票するとしても、当然デイ-ルイスに入れる。今回は男優賞はデイ-ルイス、助演男優が「ノーカントリー」のハビエル・バルデムというのはまず動くまい。


映画は冒頭、銀山でこつこつと銀の発掘に従事しているダニエル (デイ-ルイス) を描くシーンから始まる。だいたいこういう仕事をしている者は、一攫千金を夢見る山師、共同作業が苦手なエゴの強い者、事情があって故郷にいられなくなった後ろ暗い者あたりと相場が決まっている。事実ダニエルはその全部に当てはまりそうだ。


そのダニエルが穴を掘り、ダイナマイトを仕掛け、少しずつ穴を広くしていくわけだが、彼は当然それを全部一人でこなす。穴蔵の中でダイナマイトの導火線に火をつけ、それから梯子を上って外に出るわけだが、思わず、やめてくれ、導火線は穴の外まで延ばしてから、それから火をつけてくれと思ってしまう。さもなければいつ梯子から足を踏み外して落ちてしまうかわからないし、梯子そのものが壊れて外に出られなくなってしまうという状況をどうしても想像してしまう。


実際その後ダニエルは梯子から落ちて片足を骨折してしまう。しかし助けを呼ぼうにも近くに人はいない。彼は歯を食いしばって足を引きずり上げながらなんとか穴の中から這いずり出ると、仰向けになって足を引きずりながら近くの小屋までミミズのように大地をのたくっていく。むろん背景に小屋のようなものはいっさい見えず、いったい彼はどれくらいの距離を這っていったのやら想像もつかない。10分くらいかもしれないし3時間くらいかもしれない。目眩がする。


そしてこの映画は、その時代にそういう場所で働く人というのはそういうものだったのだろうと観客を納得させてしまう。這ったまま小屋にたどり着けなければ、そこに待っているものは死しかない。彼らは誰かが自分を探しに来てくれるだろうなんて淡い期待ははなから持っていまい。餓死か凍死か (夜は気温はかなり下がりそうだ) あるいはあの辺にはガラガラヘビもいそうだ。そしてたぶん、いつ死んでもおかしくないという可能性を、本人も理解していた。だからこそ這ってでも小屋にたどり着こうとするのだ。畢竟開拓時代というのはそういうものであって、いつもどこかで誰かが死ぬ可能性があった。西部開拓はそういう個人の使い捨ての死の上に成り立っていたのだ。そういう時代の空気、ダニエルのものの考え方というのを、ほとんどセリフらしいセリフもない冒頭の10分で観客にわからせる。


別にダニエルの敵がいて彼の命を狙っているというわけでもないのだが、この、いつ死んでもおかしくない環境下での彼の行動には常に緊張感がついて回り、なんか、ほとんど昨年のシドニー・ルメットの「ビフォア・ザ・デヴィル・ノウズ・ユアー・デッド」の冒頭の強盗シーンや、デイヴィッド・クローネンバーグの「イースタン・プロミスィズ」のロシア風呂における格闘シーンのようなサスペンス・クライム・ドラマを彷彿とさせる。ダニエルはしかし相手がいるわけでもなく、自分一人で、あるいは自然を相手に寡黙に淡々と仕事をこなしていくのだ。ダニエルを演じるデイ-ルイスの行動や表情に手に汗を握らされ、演出のポール・トーマス・アンダーソンにも圧倒される。思わず息を止めてスクリーンを見つめてしまったではないか。


デイ-ルイスは世界一負けることが似合う、あるいは格好よく負けることができる役者であると私は思っている。前作の「ザ・バラッド・オブ・ジャック・アンド・ローズ」ではほとんど金を持たない側の人間を演じ、今回はのし上がって富を手にする側の人間を演じているのだが、最終的にそのどちらでも勝者ではなく敗者に見えるところがこの人の特質だ。さらに彼のように負けることができるのなら、負けることも悪くないと思わせることができるところが、デイ-ルイスの最大の魅力と言える。一方、もちろん人生における勝敗なんて、実は簡単に線引きできるわけではない。特に今回はこのくらいのレヴェルで演じられると、話はほとんど神話的叙事詩みたいな印象を残すので、どんなに盛大に私は負けましたと本人に認められても、逆に人の一生は勝ち負けという視点で語られるものではないとこっちの方が言いたくなってしまう。


その「バラッド‥‥」で実は既にデイ-ルイスと共演しているポール・ダノが、ここでは奇跡を起こす牧師としてうさんくさい役どころで出ている。「バラッド」ではデイ-ルイスの娘に迫る全身チンポコのいけ好かない青年、ここでは生臭牧師と、若い男優で嫌みな役どころを演じさせるとピカ一になりつつあるという印象がある。一方「ブラッド」では、最初出てくる時は似非牧師イーライの双子の兄弟のポールとして登場し、気弱そうな青年という感じも無理なく出していた。なんとなくジェイムズ・マカヴォイに近いものを感じさせる。


他に重要な役どころとしては、ダニエルの片腕として寡黙な頼りになるやつという役どころでキアラン・ハインズ、離ればなれになっていたダニエルの弟ヘンリーとして登場するケヴィン・オコーナーあたりが印象を残す。銀山で働く仲間が死んだためにダニエルが実の息子として育てるH.W. (ディロン・フリージャー) は、オイル抗の事故で耳が聞こえなくなり、自閉的な世界に閉じこもるようになる。彼が自分の世界に住んでいる様を見て思い出すのはフォルカー・シュレンドルフの「ブリキの太鼓」で、このへんも「ブラッド」が神話叙事詩みたいな印象を与える所以になっている。徹底して利己的な男の生き様を描くことが神話に昇華してしまったのが「ブラッド」なのだ。


いずれにしてもこの役をこれくらい説得力たっぷりに演じられるのは本当にデイ-ルイスくらいだろう。アカデミー賞の発表はあと数日後に迫っているが、今回はテキサスを舞台にした二つの作品「ノー・カントリー」と「ブラッド」が軸だ。さらに時代は違えど「3:10 トゥ・ユマ」があり、「告発のとき」と、他にも南部が舞台の作品があった。今回は南部の年だったのだ。しかし大統領選挙の年に、よりにもよってジョージ・W・ブッシュの地元テキサスが注目される。なんか、また共和党勝つんですかあ。ヘンな予兆でありませんように。







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