1984年東ドイツ。シュタージと呼ばれる秘密警察は、これと思われる一般市民には盗聴を仕掛け、異端分子は徹底して排除することで絶対的な統制を敷いていた。時の為政者ヘンプの命を受けたヴィースラー (ウルリッヒ・ミューエ) は、作家のドライマン (セバスチャン・コッホ) とその恋人の女優のジーランド (マルチナ・ゲディック) の盗聴を始める。優れた盗聴および尋問技術者であったはずのヴィースラーだったが、盗聴を続けるうちに、二人に感情を移入するようになってしまう‥‥


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私の住んでいるところでは先週から公開のドイツ映画の「善き人のためのソナタ」、混みそうだなと考えて一週伸ばしにし、今週見てきた。少しは空くだろうと思ったのだが、意外にも当確と思えた「パンズ・ラビリンス」ではなく「善き人のためのソナタ」がアカデミー賞外国語映画賞を獲得してしまったためというせいも大きいだろう、結局、今回もかなり混んでいる中をかなり前の方の席でスクリーンを見上げるようにして見ざるを得なかった。まあ、しょうがない。


「善き人のためのソナタ」は、ベルリンの壁崩壊前の東ドイツのほとんど恐怖政とも言えるシステムを支える基盤の一つでもあった盗聴という仕組みを軸にストーリーが展開する。自分の言動が四六時中見張られ、口にしたことがすべて記録されているのだとしたら、これは怖い。往来でうかつに冗談も叩けないし、自分の家の中でも声をひそめて家族と会話しなければならないとしたら、息がつまるだろう。もし自分が何気ない一言を発した瞬間を誰かが耳にしていたらと、誰もが疑心暗鬼になり、誰も信用できない状態が続く。


「ソナタ」の主人公ヴィースラーは、その忍耐強く実直な性格もあって、ヘッドセットを着用して延々と他人の家の物音を拾い続けるという仕事を、誰よりもうまくこなす職人だった。ただそのことだけを黙々とこなし、相手が嘘をついていることを確実に見抜き、相手が本当のことを口にするまでは追及の手を緩めなかった。しかしそのヴィースラーが新しく盗聴の任務を負った相手は劇作家とその恋人の女優で、彼らの舞台を見、設置した盗聴装置によって会話の一部始終を耳にし、その考えを追認し、奏でるピアノの音を漏れなく聴くことで、これまで決してヴィースラーの身に起きなかったことが今回に限って起きてしまう。ヴィースラーは彼らの考え方に共鳴してしまうのだ。むろん、自身が機械となって働くことこそによってその道の一人者たり得たヴィースラーが自分の感情を仕事に差し挟むことは、任務の失敗のみならず、自分自身の身の破滅にも繋がりかねなかった‥‥


作品のテーマである盗聴ということを聞いて、まず人が思い浮かべるのはフランシス・フォード・コッポラの「カンバセーション 盗聴」だろう。あれは主人公のプロの盗聴者ジーン・ハックマンが、自分自身も盗聴されているという疑惑にさいなまされるようになる話だったが、「ソナタ」の主人公ヴィースラーは、自分が盗聴する相手に感情移入して共鳴するようになってしまう。


考えるに、盗聴という行為は非常に想像力を刺激する。音だけを聞き、見えない部分は想像力で補わなければならないからだ。一方だからこそ、それが職業となった場合、昔のヴィースラーのように想像力のあり過ぎない、どちらかというと融通の利かない人間にこそ向いている職業と言える。盗聴という仕事のレポートに、想像で補完した描写が含まれていたら現場が混乱するだけだろう。もしそこに、対象に興味や関心を持つ好奇心や、盗聴する者される者の立場を考える想像力が関係してくると、とたんにその仕事は基盤を失う。盗聴者自身が疑心暗鬼になって周りの者すべてを疑ってかかるハックマンのようになるか、対象と同化して仕事仲間を裏切るヴィースラーのようになってしまう。


盗聴とはそれが仕事になった場合、徹底して官僚的な仕事であり、想像力を差し挟むべきではないのだ。しかしある程度の想像力を働かさなければ、音だけではまるっきり何がなんだかわからないだろう。そこで必要最小限の想像力だけを挿入し、あとは切り捨てることのできる一線をわきまえているのが一流の盗聴者ということができる。もし盗聴してそれを喜んでいるだけなら、それはアマチュアとしか言えまい。


ところで盗聴者は音だけで状況を判断せざるを得ず、盗聴者が提出するレポートの終わりに、たぶん対象の二人は寝る前に性交をしたものと思われると書かざるを得ない。その時、観客は二人がいったいどういう姿勢で性交したかをはっきりと知っている。観客は盗聴者よりも常に優位な立場にいるのだ。それなのに盗聴者が音だけを頼りに何をしどこに何を隠したかを判断するのを見て、一緒になって考えてみたり、間違いを指摘したりはらはらしたりする。ハックマンとかヴィースラーとかは、最初は対象の知らないところで盗聴しているという優位な位置にいるように見えながら、実はそうではない。盗聴者が段々道を踏み外していくのも道理と言えよう。


そこでもう一つ思い出すのが、盗聴ではなく、盗撮が重要なプロットとなったミハエル・ハネケの「隠された記憶」である。盗撮も盗聴と同じくらい盗撮される側を痛めつける。どちらも一方的にプライヴァシーを侵害する一種の暴力であることには変わりないからだ。とはいえ基本的に相手に感づかれないことを目的とする盗聴、盗撮は、それ自体ではなんの影響力も持たない。実際の話、「ソナタ」で最大の被害者であるはずの劇作家のドライマンは、ベルリンの壁が崩れた後にそれと知るだけで、すべては彼の与り知らぬところで話は進んでいる。盗聴/盗撮は、盗聴、盗撮したその物件を誰かに見せること、あるいは本人に見せたり聞かせたりすることで力を発揮する。知らなければそれで話は終わってしまうが、もし知った時の破壊力は強大だ。


一方、「カンバセーション」や「ソナタ」では結局盗聴者本人も痛めつけられることになるが、「隠された記憶」では盗撮者はそうはならない。というか、誰がその盗撮を行っていたかについてすら明らかにされないまま終わる。これは両者の特徴をよく現していると思う。つまり音だけしか聞こえない盗聴では、誰かが盗聴した音から起きていることを判断するというもう一段階の作業が必要となる。一方、盗撮ではすべてが一目瞭然であるため、そこに状況を判断する人間がいる必要がない。盗聴と盗撮ではどちらの方がより与える影響が大きいかという点については微妙だと思うが、盗撮の方が直截的に、比較的単純に効果を得ることができるとは言えるかもしれない。「ザ・グッド・シェパード」では、ヴィデオテープに映っているものを判断するCIAの専門家は確かにいたが、一般的には、確かに百聞は一見に如かない。


だからそこに盗聴者という媒介者が必要になる盗聴という行為の方が、入り組んでいるだけ、なんらかのドラマ、あるいは余剰な何かを話につけ加えることができる。そしてなぜだか盗聴者は盗聴するという能動的な立場にいながら、最終的には盗聴者の方こそ痛い目に遇いやすい。「隠された記憶」の盗撮者が誰だか知らないまま、その人間は逃げおおせてしまい、別に直接描かれていたわけではないが、「ザ・クイーン」ではパパラッチはダイアナ元王妃の死の責任はあっても結局責任の居場所すら明らかにならず、「裏窓」では無聊をかこった末に人の家を覗いていたジェイムズ・スチュワートはハッピー・エンドにすらなるというのに、盗聴する者には痛いしっぺ返しが待っている。現実の東ドイツでは、当時、密告や盗聴する者が後を絶たなかったというが、彼らだってそれで魂の平安を得たとは言い難かったのではないかと推測する。


「ソナタ」には謹厳実直のヴィースラーに扮するウルリッヒ・ミューエや自分が盗聴されているのも知らないドライマンを演じるセバスチャン・コッホをはじめとして、いかにも適役という印象の役者が揃っているが、私があっと思ったのはほぼ紅一点のジーランドに扮するマルチナ・ゲディックだ。実はいくら「マーサの幸せレシピ」の主演として見ていようとも、つい先頃「ザ・グッド・シェパード」を見て、あれ、この女優はどこかで見たことがある、誰だったっけと苦心して思い出してなかったら、今回、いくら主演級だとはいえ、すぐに気づいたかは疑問だ。最近見たドイツが関係する映画は、「ザ・グッド・ジャーマン」以外全部ゲディックが出ているような気がしてきた。


もしかしてスピルバーグの「ミュンヘン」にどこかで顔出してないか? あるいはマリー-ジョゼ・クローズが演じた刺客役なんか、もしかしたらゲディックも候補に挙がってたんじゃないのか、あれにゲディックが出てないのは解せんなあ、なんてったって、今、世界で最も知られているドイツ人女優だろう、なんて考えているのだった。しかし何度も言ってしまうが彼女を見る度に思ってしまうが彼女は骨太だ。その彼女が、アジア人の目から見ても小さいと思えるバスタブの中に縮こまっていたのが、なんとも物悲しいと思わせる。 







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善き人のためのソナタ  (2007年3月)

 
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