Munich   ミュンヘン  (2005年12月)

1972年ミュンヘン。五輪村でイスラエルの五輪代表が殺された後、モサドはアヴナー (エリック・バナ) をリーダーにチームを組織し、事件の首謀者を地球のどこまでも追い、どれだけ時間がかかってもこの世から抹殺するという任務を負わせる。アヴナーらは一人また一人と標的を消していくが‥‥


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「宇宙戦争」のような娯楽作品の後に来るスティーヴン・スピルバーグのシリアスな作品ということで、ちょっと身構えていたことは事実である。しかも最初に入ってきた情報は、ミュンヘン五輪のイスラエル村の惨劇を描いた作品ということで、やっぱ、これ、説教臭いのかしら、だったらやだなと思っていた。しかし「ミュンヘン」はその惨劇を描く作品ではなく、事件の起こった後、イスラエル政府から秘密裏に事件の首謀者暗殺を要請され、地道にその任務を遂行していくイスラエル側の暗殺者たちを描く作品であった。


いくら政府の依頼であろうとも、現代社会の通念から見れば認められない暗殺による復讐という仕事のため、この依頼は記録には残らない。イスラエルがこの仕事を頼んだことを正式に認めることはないし、リーダーのアヴナーを筆頭とする暗殺者たちとの関係も一切認めない。しかしアヴナーの銀行口座には絶えず金が振り込まれ、どれだけ時間がかかっても、アラブ側の事件の首謀者の息の根を止めることは、間違いなく彼らに課せられた任務であった。


要するに「ミュンヘン」は、スピルバーグ的な人種問題を扱ったシリアスな作品であるが、スピルバーグのこの種の作品にしては、かなりエンタテインメント的な要素も濃い。「宇宙戦争」が、エンタテインメントに徹すればいいのによけいなメッセージを保たせようとしたためにちょっと歯切れが悪かったのとは裏腹に、シリアスな作品でありながらエンタテイニングな「ミュンヘン」の方が、より娯楽色が強いとすら言える。要するに「ミュンヘン」は面白い。「ゴルゴ13」的な面白さがあるとすら言える。


もっとも、超人的スナイパー、ゴルゴ13とは異なり、アラブ報復のために選ばれた面々は、アヴナーを筆頭に、その道のプロというよりは、その時のイスラエル側の事情で選ばれたというだけのご都合主義的な面もある。アヴナーですら単にボディ・ガードの経験を買われただけで、人殺しのプロというわけではない。あとの面々も似たり寄ったりで、連係プレイもぎこちなく、あわや関係ない人間を爆死させようとしたり、爆薬の量を間違えていたずらに被害を大きくしたり、味方とは言えない面々と同宿することになったり、ターゲットを目の前にしてから慌てて武器を組み立てたりするなど、手際がいいとはまるで言えない。もちろん、だからこそ見てるこっちもやばいやばいと緊張することになる。


それでも、何千年という気の遠くなるような時間を経てついにイスラエルという国を建設したのを見てもわかるように、ユダヤ人は目的完遂のためならどれだけの金と時間をかけることも惜しまない。それは復讐というものでも同じだ。暗殺を請け負ったアヴナーらは、同様に、どれだけ金と時間がかかっても、とにかく目的を遂行することを求められる。ユダヤ人が最終的にイスラエルを建国したように、ひたすら我慢強く、忍耐を重ね、一人一人ターゲットを消していくのだ。


しかし、それでも事はイスラエル建国のように、我慢に我慢を重ねて最終的に目的を達すればいいというわけではない。相手が生身の人間である以上、あまり時間をかけすぎるとそれまでに相手の方が病気や事故で勝手に死んでしまう可能性もあるが、そうではなく、標的は暗殺者の手にかかって死ななければならない。それだけでなく、追う方であったアヴナー側も、彼らのやることが相手にも把握されることで逆に追われる立場になってしまう。今や自分らも追われながら、それでも目的を果たさなければならない。さらに復讐という行為は、たとえ同胞の無念を晴らすためとはいえ、実際には関係のないアヴナーらにとっては、畢竟第三者の話でしかない。自分の命を晒しながら復讐を続けていくことに何か意味はあるのか。


主人公のアヴナーに扮するのがエリック・バナで、もちろん主演でもあり、頑張っているのだが、実は「ミュンヘン」は脇の方が特徴があって印象に残りやすい。真面目に悩んだりして奥行きのある主人公でなければならないアヴナーに較べ、一面的だが秀でたものを持っているという特質を前面に出してぐいぐい押していける脇の方が印象に残りやすいのだ。真面目な優等生より癖のある劣等生の方が記憶に残りやすいのと同じ理屈である。


まず、アヴナーに仕事を頼むイスラエル政府の役人に扮するのがジョフリー・ラッシュで、あんた、うさん臭い役柄がよく似合う。アヴナーの暗殺チームを構成しているのは、シアラン・ハインズ、ダニエル・クレイグ、マシュー・カソヴィッツ、ハンス・ジシュラーといった面々で、元々力はあるハインズが久々にはまっているし、次期007のクレイグ、「アメリ」のカソヴィッツ等、やはりこういうチームは癖のある面々が固まるほど見応えがある。情報提供者のルイを演じるマシュー・アマルリックは若い頃のロマン・ポランスキーそっくりでいかにも一癖ありそう。パパを演じるミシェル・ロンズデイルもいい味出している。美貌の女性刺客として現れるのは「みなさん、さようなら (The Barbarian Invasions)」のマリー-ジョゼ・クローズで、少し肉はついたが色気も増した。


視覚的にはヨーロッパ中にロケしながら70年代をほぼくまなく再現している。主要登場人物だけでなく、背景に現れる無数の人間のファッションや、遠くに垣間見える自動車までその当時のものだ。今では遠景だとかなりの部分がCGでごまかすことができると思うが、明らかに何百人ものエキストラを利用しているシーンもあり、思わず撮影規模にほうっとため息が出る。


そんなこんなで実は2時間45分という長さにもかかわらず、あっという間だった。こういうエンタテインメント色が前面に出てきた場合のスピルバーグの演出というものは、やはり余人の追随を許さないという気がする。とはいえ、自身がユダヤ系で、これまでにそういう作品をものにしてきたスピルバーグにしては、ユダヤを擁護するというよりはむしろすべてを水に流そう的な印象の濃い幕切れで終わる「ミュンヘン」は、実は、当のユダヤ人からボイコット運動を起こされていたりする。暗殺を正当化しなかった場合、アヴナーのしてきたことは単なる殺戮にしかならないわけだから、がちがちのユダヤ人から見れば、これは由々しき問題なのだろう。


ところでミュンヘン事件の起きた1972年は、あの「ゴッドファーザー」が撮られた年でもある。その「ゴッドファーザー」の通奏低音として流れる復讐というテーマがここでも繰り返されている。さらに1972年と言えば、作品の最後に遠景に展望される世界貿易センタービルが完成した年でもあった。後年アラブ系テロリストによって崩壊させられる貿易センタービルと、復讐に意味はあるのかと自問するアヴナーの疑問がシンクロする。さらに言うと、五輪時に特派員として現地に派遣されてニューズを伝えていたのは、ABCのアンカー、ジム・マッケイと、今年物故してネットワークによるワールド・ニューズ報道の終焉を印象づけたピーター・ジェニングスだった。こうやって世界は変わっていくのか、いかないのか。






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