第二次大戦後ベルリン。戦勝国は戦後処理を相談すると共に力関係のバランスを見極めようとしていた。軍関係のジャーナリスト、ジェイク (ジョージ・クルーニー) はかつて住んだことのあるベルリンにまた舞い戻って来る。チンピラまがいのタリー (トビー・マグワイヤ) 経由でかつての恋人だったレイナ (ケイト・ブランシェット) と再会するジェイクだったが、レイナはジェイクに隠し事をしているようだった‥‥


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ジョゼフ・キャノンの同名原作 (邦題: さらば、ベルリン) の映像化である「グッド・ジャーマン」、先週は劇場が劇混みで見そびれたものの、今週はすっきりと見れてしまった。劇場の上映スケジューリングが奏功したか、あるいは既にアカデミー賞ノミネート効果も去って劇場に詰めかける観客が減ったか。たぶんその両方だろう。


さて、「グッド・ジャーマン」であるが、スティーヴン・ソダーバーグがまた盟友のジョージ・クルーニーと組んで撮ったモノクロ作品である。もちろん彼らの仲間には、他にもジュリア・ロバーツとかブラッド・ピットとかといった大物もいたりするが、ソダーバーグとクルーニーがその核であるのは間違いない。この二人、映画だと「オーシャン」を筆頭に「シリアナ」「グッド・ナイト・アンド・グッド・ラック」等の注目昨を連発しているが、よく見るとわりと失敗もしている。個人的には非常に満足した「ソラリス」も興行的には微々たる成績しか上げることはできなかったし、なんといっても彼らの実験精神が遺憾なく発揮されるTV番組では大きくこける。HBOの「Kストリート」や「アンスクリプティド」を見ていた者がいったいどれだけいるやら。


とはいえ二人でやっている時はまだいい。ソダーバーグがクルーニーとは関係なく演出した「フル・フロンタル」の場合、ただ冒険のための冒険みたいな姿勢だけが前面に出てしまい、一般観客の視点から見ると面白くも何ともなかった。なんやかや言いつつもこの二人、一緒に何か撮る時の方がどちらかが安全弁として働いたりして機能しているんだろう。つまり、やはりなかなかいいコンビなんだろう。二人ともそのことを自覚していると思われる。


「グッド・ジャーマン」がそういったこれまでのこのコンビ製作作品とちょっと異なっているのは、モノクロ作品に特にこだわってきたクルーニー作品において、初めてソダーバーグが演出を担当したということにある。「コンフェッションズ」、「グッド・ラック」というモノクロのクルーニー作品において、クルーニーは製作、出演、演出と3足の草鞋を履きこなしていたのだが、ソダーバーグはそこではプロデュース以上のことはしていない。つまり、でき上がった作品はどこからどう見てもクルーニー作品であった。


しかし「グッド・ジャーマン」においては、前2作では演出の方に力を傾け、俳優という点では後ろの方にいたクルーニーが主演となり、演出をソダーバーグが担当している。そのため、撮影監督としても一流の腕を持ち、自作を撮影してきたソダーバーグが、クルーニー製作モノクロ作品で初めて演出と撮影を担当している。これまでのルーティンを断ち切ってまた新しいことに挑戦する二人の新作がどういうものになったのかは、やはり気になる。


「グッド・ジャーマン」は第二次大戦直後の荒廃したベルリンにおいて、ポツダム宣言をどうするかで戦勝国同士のパワー・ゲームがたけなわの頃を舞台としている。以前ベルリン駐在の経験もある軍事ジャーナリストのジェイクはまたもやベルリンに舞い戻ってくるが、着任早々遭遇した彼の世話役のタリーは、うさん臭いことこの上ない。タリーがいなくなった直後、ジェイクは財布がすられていることを発見する。しかしタリーとの繋がりから、思ってもいなかったことにジェイクは昔つき合いのあったレイナと再会する。しかし戦争はレイナの生活を荒廃させ、いまやレイナは春をひさぐ身となっていた。しかしあくまでもジェイクとまた深いつき合いになるのを拒もうとするレイナは、それだけでなく、ジェイクに他にも何か隠しているものがあることをジェイクに感じさせる‥‥


もちろんジェイクを演じるのがクルーニーなのだが、それよりもチンピラのタリーを演じるトビー・マグワイヤと、レイナを演じるケイト・ブランシェットが絶妙な適役。他にも適材適所的にうまい具合に俳優が起用されているが、特にマグワイヤとブランシェットの二人は、本当のことを言うとクルーニー以上に見てて飽きない。スパイダーマンがこんなところでちまい悪どいことをしているのを見るのもなかなか楽しいが、ブランシェットは、彼女以上にこの役をうまく体現できる女優はたぶんいないのではないかと思われる。


一方、作品の冒頭の、当時のモノクロ映画を模した出だしやライティング、音楽は、時代を逆行させることに効果的というよりは、ほとんど遊んでいるという印象の方が強く、思わず引きそうになる。おいおい、結局また「フル・フロンタル」やってんじゃないだろうなと青くなりかけたのは事実だ。個人的な意見を言わせてもらうと、ある特定の時代を描く作品が、過去のその時代を描く作品のスタイルを手本にし、それを模したりすることは別にかまわないと思うが、それでも特に音楽は慎重に使ってもらいたいと思う。音楽というものは視覚以上に記憶と結びついており、下手に使うと予想以上に効果が出てしまうというか、この場合は古くさく、二番煎じ的な印象を与えかねない。特にこの時代のともすれば大仰な音楽となるとなおさらだ。ブライアン・デ・パルマの「ブラック・ダリア」があそこまで酷評された責任の多くは、イメージの方の演出にではなく、音楽の処理の誤りにあったんじゃないかと私は思っている。


演出スタイルやライティングでフィルム・ノワールやネオ・リアリズム的手法を取り入れるのは気にならないが、音楽までも当時のスタイルを模倣すると興ざめに感じてしまうのは、私の感覚としては音楽は優れて同時代的なものなので、そこまである時代そっくりにしてしまうと、一挙にすべて作り物くさく感じてしまうためだ。音楽があることを喚起したり示唆するのはかまわないが、偽の同時代性の押し売りはやめてもらいたい。むろんそれが気にならないとか、逆にその効果を満喫している者も当然いるとは思うが、例えば時代が多少異なるとはいえ、同じ場所が舞台のロバート・デ・ニーロ演出の「ザ・グッド・シェパード」(なんでタイトルまで似ているんだ) の控え目な音楽の使い方の方が、私にとって理想である。


俳優としてのクルーニーには悪いが、作品としての「グッド・ジャーマン」の一応の成功は、かなりの部分をブランシェットに負っている。こういう推理仕立ての作品ではありがちだが、クルーニー演じるジェイクは、ブランシェット演じるレイナに振り回される狂言回し的な印象が強い。正直言って別にクルーニーじゃなくてもよかったろう。とはいえ最初の方は、ブランシェットのドイツ訛りの英語だって、なるほどマレーネ・ディートリッヒを連想させはし、彼女のうまさを引き立てもするが、ではそれが作品に特に役立っているかというと、むしろここで赤の他人を連想させてしまうのはまずいんじゃないかと、最初の方は懐疑的だった。まあそれも最初の方だけで、後は気にならなくなったが。


実は劇場に足を運んだ時点で初めて気づいたのだが、6本が上映されているこの劇場で、そのうちの3本、「バベル」、「あるスキャンダルの覚え書き」、そして「グッド・ジャーマン」にブランシェットが出ている。特に現代を代表する女優として、出ている作品がだいたい大きく評価されるブランシェットの場合、アカデミー賞のノミネーションが絡んでくる年末から年初に公開が重なる傾向にあるが、しかし、出演作品が3本同時公開中というにはめったにあるまい。端役専門の役者なら探せばいくつか見つかるかもしれないが、ブランシェットの場合は、彼女の名前で人を呼べる主演から準主演で3本共に出ているのだ。


そしてもちろん、稀代の殴られ女優として映えるブランシェットは、「バベル」と「グッド・ジャーマン」では殴られたり撃たれたりする。両作品で彼女が病院送りになるのだ。「あるスキャンダルの覚え書き」の場合だと、さすがにその現実のモデルとなったメアリ・ケイ・ルトーノー事件の方が圧倒的に興味を惹くので、いくらその事件をモデルにオリジナルのフィクションに仕立て上げ、ブランシェットが出ているとはいえ、見に行く気になれなかったのだが、ここでも彼女がまた追いつめられているのは間違いあるまい。


いずれにしても、「グッド・ジャーマン」はちゃんとエンタテイニングな作品に仕上がっている。要するにソダーバーグ-クルーニー作品の場合、どこまで冒険するかという本人たちの線引きの加減に、他の人たちがそれを受け入れられるかどうかがかかっていると言えよう。ソダーバーグなんて、黒子に徹して地味に手堅い演出に徹しようと思えばできるはずだが、なんの因果か掟破りのクルーニーと出会ってしまったために、ハリウッドきっての実験主義者的な評価が固まりつつある。まあ、「オーシャン」と交互にこういうことするなら、別にそれもいいか。







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The Good German    ザ・グッド・ジャーマン (さらば、ベルリン)  (2007年2月)

 
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