1944年スペイン。フランコ政権下、少女のオフェーリア (イバーナ・バケロ) は軍人のビダル (セルジ・ロペス) と結婚する身重の母のカルメンに連れられて、山間の田舎の村にやってくる。そこはまだフランコ政権に対するレジスタンスが根強く、ビダルに仕えるメルセデス (マリベル・ベルドゥ) ですら実はレジスタンスと繋がりがあった。しかしビダルはレジスタンスに対する締めつけの手を緩めず、徹底して弾圧した‥‥


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アレハンドロ・ゴンザレス・イナリツ、アルフォンソ・キュアロン、フェルナンド・メイレレスといった近年めきめき頭角を現してきた中南米出身の映画作家たちの中で、実はギレルモ・デル・トロは、キュアロンと共に早くから知られていた一人だった。いち早くハリウッドに進出していたキュアロンは、93年にショウタイムのTVシリーズ「堕ちた天使たち (Fallen Angels)」の一本を撮っており、95年にはハリウッドで独り立ちする契機となった「リトル・プリンセス」をものしているが、93年に「クロノス」を撮ったデル・トロの方が、当初の知名度は高かった。


ヴァンパイアものに独特の視点と切り口を織り込んだホラーの「クロノス」は、外国語映画として公開されながら評判になり、デル・トロはハリウッドに招かれ、97年に「ミミック」を撮る。とはいえデル・トロの場合、美学というよりはただ単に異常な虫偏愛に近いものを感じさせ、「クロノス」でも「ミミック」でもそれが巨大化するという展開は、ゴキブリ系や、ムカデみたいに足がうじゃうじゃある虫が得意でない私には不向きな話だった。さらに「ミミック」は私が住んでいる地元ニューヨークの話ということもあってヘンにリアリティがあって私は受けつけず、ちょっとたんま、という印象の方が強かった。今「ミミック」を思い返しても、なんだか耳の後ろあたりがざわざわする。デル・トロが苦手という人は結構多いのではないか。


そのためちょっとデル・トロは休み、みたいな感じになって、実はその後それなりに評判になった2001年の「デビルズ・バックボーン」は見ていない。その後「ブレイド2」、「ヘルボーイ」なんてこれまた私の得意分野ではないアメ・コミ路線に行ってしまったため、近年の中南米出身監督の頭角が評判になってもデル・トロの名前は思い出さず、正直言ってほとんど忘れていた。


そしたらこの「パンズ・ラビリンス」で、イナリツ、キュアロンと共にまたもやデル・トロの名前が浮上してきた。よく考えたらイナリツ、キュアロンと共にデル・トロもメキシコ出身であり、同じ中南米とはいえこの3人とブラジル出身のメイレレスは一括りにはできないものがある。メキシコとブラジルでは実際に地理的に結構隔たっており、話している言葉だって違う。日本人だってアメリカ人から見ると韓国人や中国人と一緒にしか見えないが、一緒にされると思わず違うと強く否定してしまう。メイレレスもたぶん自分がイナリツやキュアロンと同列で論じられることに違和感を感じているだろう。


一方、こちらは完全に同郷でメイジャー・デビュー時期が似通っているキュアロンとデル・トロ、それにイナリツを含めたメキシカン三羽烏は、実際に仲がよく、頻繁に連絡をとり合っているそうだ。こないだニューヨーク・タイムズ・マガジンをめくっていたら「バベル」が評判のイナリツにキュアロンがインタヴュウするという記事があったし、USAトゥデイを読んでいたらデル・トロとキュアロンとイナリツが仲よく3人でインタヴュウに答えていた。「パンズ・ラビリンス」はデル・トロ自身と共にキュアロンもプロデューサーとして参加している。確かにこの3人は実際に強い連帯感で結ばれているようだ。


さて、その「パンズ・ラビリンス」であるが、舞台はフランコ政権下のスペインの山間の田舎村、そこへ指揮官として派遣されているビダルの元へ、夫亡き後生計に苦しんでいたカルメンが、娘のオフェーリアを連れて、既に臨月に近いお腹を抱えて再婚しにやってくる。空想癖の強いオフェーリアは、古めかしい家屋や鬱蒼とした森という環境で、直ちに様々な空想を巡らせる。一方オフェーリアと、厳格で、カルメンとの結婚も自分の世継ぎを生ませるためくらいにしか考えていない根っからの軍人であるビダルとの相性は、まったく相容れないものだった。さらにビダルの世話をするメルセデスや医者は実は裏でレジスタンスと連絡があり、森の中には銃を持った生身の人間たちもいた。


そして森の中にはレジスタンスだけではなく、オフェーリアの空想が生み出した地下の王国もあった。そこでは地上を夢見る王女がいたが、願いをかなえた途端死んでしまう。しかし王女は人間の女の子として生まれ変わることになっており、それがオフェーリアだった。オフェーリアは虫 (やはり虫だ!) に誘われるまま、地下の王国の番人である牧神と出会う。牧神は、王女として生まれ変わるためにパスしなければならない3つのテストをオフェーリアに課す。


もちろんこのテストは現実の世界とはなんの関係もない上に、その時の現実のスペインは外が第二次大戦、中はフランコ政権とレジスタンス、そして新しく父となるはずの男は人を人とも思わない人間というように、決してオフェーリアにとって暮らしやすいものではなかった。さらに身重の母の容態は悪化し、オフェーリアは牧神から教わった母の病状をよくする方法を試してみる。それはもちろん医学的見地からは治療でもなんでもなく、ビダルに見つかって叱責を受ける‥‥とまあ、まだ10歳前後の女の子が処理するにはあまりにも無理難題すぎる諸々の問題が彼女の回りを取り囲んでいる。また、だからこそ彼女の空想の力は現実から逃避するために逆に強く働くのだ。


特に一見のっぺらぼう、それが手のひらに目ん玉を縫い込んでいないいないばあをすると、あら面妖な化け物なんていう造形はおもわずぞくぞくさせられる。もちろんオフェーリアは食べちゃあいけないという色とりどりのおいしそうなフルーツに目が眩み、思わずぶどうを一粒二粒口の中に入れたせいで化け物を生き返らせてしまい、命からがら逃げ帰ることになる。そこで彼女が現実世界に帰るのに使用するチョークは、壁にドアを描くことでこちらの世界とあちらの世界を行き来することができる「ドラえもん」のどこでもドアだ。


ついでに言うと、枯れた大木の下に住む巨大ガマガエルは、昔「仮面の忍者 赤影」でこういう化け物を見た記憶がある (というかそもそもは児雷也なんだろうが、こちらはオリジナルを見たり読んだりしたことがない。) 最近、洋の東西でこういう意識下の文化の交流を窺わせるような場面をよく目にする。あるいは単に人々の想像力が枯渇してきたのか、それとも世界が狭くなってきたためのシンクロニシティか。いずれにしてもこういうオフェーリアの空想の世界が、きな臭い現実の世界と対比してよく効いている。あるいは、この空想の世界があるからこそ、現実世界の容赦のなさが際立つとも言える。


むろん幼いオフェーリアこそが物語の主人公であるのだが、彼女を主人公として成り立たせるためのそういう空想世界の怪物、そして現実世界のビダルの悪人ぶりこそがストーリーに力を与えている。特にビダルの変人ぶりは常軌を逸しており、軍人らしく規律こそがすべて、秒単位で生活を律し、それに反するものは排除あるのみという偏屈野郎だ。演じるのは「ハリー、見知らぬ友人」のセルジ・ロペスで、得意の無表情変態パワーを炸裂させている。また、メルセデスを演じるのはキュアロンの「天国の口、終わりの楽園」のマリベル・ベルドゥで、こんなところにもキュアロン-デル・トロ連携が現れている。


「パンズ・ラビリンス」はデル・トロの大衆受けする要素が開花した作品だと思うが、それでも、これは子供向け作品ではない。ファンタジー作品ではあるが、最後にみんな大人になって悪者倒してハッピー・エンド、みたいな綿あめのような砂糖菓子作品ではないのだ。むろん、だからこそ私のような近年の子供向けファンタジーの奔流にうんざりしている者にもアピールする。


たとえキュアロンがまたメガホンをとろうとも、また見に行くかどうかはわからない「ハリー・ポッター」や、TVで見てこれに金出して見に行ってなくて本当によかったとしか思えなかった「キング・コング」、その他「ナルニア国物語」や「エラゴン」等、子供向けファンタジーのタイトルを聞いただけでまたかと気持ちが萎える大人の観客にこそお勧めの、大人による大人のためのファンタジーが「パンズ・ラビリンス」なのだ。ガキはおとなしくうちで留守番させといて、大人だけで見に行ってもらいたい。







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パンズ・ラビリンス  (2007年1月)

 
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