Cache   隠された記憶   (2006年2月)

TVパーソナリティのジョルジュ (ダニエル・オートゥイユ) は、妻のアン (ジュリエット・ビノシュ)、息子のピエロと一緒にパリの一軒家で暮らしていた。ある時、彼らの元に彼らの家の外観だけをただ長時間にわたって撮っただけのヴィデオテープが届く。さらに彼らの職場にも同様に絵葉書が届くようになり、ジョルジュが幼い頃に住んでいた郊外の家を撮ったヴィデオテープが届くにあたって、何者か家族に近しい者の悪意が明らかになる。しかしその者の狙いはいったい何なのか‥‥


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癖のあるヨーロッパ映画の中でもその筆頭と思われるミハエル・ハネケの新作は、相も変わらず悪意やヴァイオレンスが画面に横溢する救いのない世界が展開する。いずれにしても前回の「ピアニスト (The Piano Teacher)」に続き、ちゃんとハネケ作品が劇場で公開されるのは、まことに喜ばしい。


「隠された記憶」は冒頭、何者かが録画した自宅のヴィデオテープを主人公のジョルジュとアンが見ているという状況で始まるのだが、動かない一軒家を映しただけのオープニングが延々と続く。ついでにそこに細かい文字を羅列したオープニング・クレジットが一枚画面で延々と被さっていくという、史上最も独創的な出だしで始まる。最初は何の説明もなく、ただ同じ映像が延々と映されるだけで、これはいったい何なのだと思っていると、そこにジョルジュとアンの声が被さってきて、我々が見ているのはたぶんヴィデオテープの映像だというのが知れる。


その後、その画面が巻き戻されるので、やっぱりこれはヴィデオテープだったとわかるのだが、いずれにしても、それだけでいったい何が始まるのかと結構ドキドキさせてくれる手腕は実に見事。その時点では、まだ我々観客が見ているのは、家の遠景だけというたった1ショットでしかないのだ。ところでハネケは、「ファニー・ゲーム」でも画面全体が実はヴィデオで、それを巻き戻すことで現実の世界自体まで巻き戻って、今度は話が別の展開を見せるという人を食った演出をしていたが、どうやらヴィデオという媒体に特に思うところがあるようだ。


ハネケ作品の特質は、孤独、疎外感、ヴァイオレンス、コミュニケーションの不在、といったところに求められるわけだが、それは今回も例外ではない。むしろ今回はそういうアンチ・コミュニケーション、端的に言って悪意が見えないところから対象に対して照射されるだけに、そういった特質がさらに際立つ。しかもその上、そういう悪意を持っている者が誰かわからないため、主人公が疑心暗鬼になって追いつめられていく上に、フーダニット的ミステリ色が強い。


さらに、今回は途中でショッカー的な、観客がほぼ全員悲鳴を上げるというなまじのホラーではおよびもつかない心臓ストップもののショットがおまけについている。つまり「隠された記憶」は、誤解を怖れずに言うならば、エンタテインメント的要素も強い。そのため、ハネケ的題材を扱いながら同時にかなり人受けするという、これまでのハネケ作品から言うと想像もできない、高度に思索的でありながら、同時にハリウッドも顔負けのエンタテイニングな作品に仕上がった。この作品がヨーロッパ映画賞を総嘗めにしたというのも頷ける。


あまりヨーロッパ映画が紹介されないアメリカにおいては、かの地を中心に仕事している俳優はそれほど目にする機会がない。そのため主人公のジョルジュを演じるダニエル・オートゥイユがフランスではヴェテランもヴェテランというのは、知識としてはよくわかるのだが、それよりも馴染みのある妻のアンを演じるジュリエット・ビノシュの方が気にかかる。彼女は特に近年、中年にさしかかって心持ち体重も昔より増えてきたこともあるのだろう、優しい母親的な役が増えた。実際、彼女は昔からそういう味が売りだったし、昨年から今年だけでも「イン・マイ・カントリー」、「綴り字のシーズン (Bee Season)」と、いかにもそういう情に厚そうな女性を演じている。それが「コード・アンノウン」にも出演するなど、ハネケ作品に出るのはこれが2度目になる。むしろビノシュの持つそういういかにもアンチ・ハネケ的な持ち味が、逆にハネケ作品の特質を浮き彫りにする効果を果たしているという気がする。



(注) 以下ネタばれ強


ところで今回は意外にエンタテイニングといえども、本質的に見る者に親切ではないハネケ作品において、実は今回もミステリ仕立てでありながら謎は最後に至っても解明されないという、ハリウッド的見地から見ると言語道断的な幕切れを迎える。実は作品は最後、ピエロが通っている学校を正面からとらえた長回しで終わるのだが、やはり一般的な観客の反応は、え、で、これで終わりなの? いったい誰がヴィデオテープを送っていたの? ではないだろうか。実はここでもハネケの不親切心はいっそう磨きがかかっていて、何十人もの生徒が遠景でスクリーン上に登場するこのショットで、この中のどこにピエロがいるかは、目を凝らしてよくよく見ないとわからない。カメラは親切に教えてはくれないのだ。実際にその前の同様のシーンでピエロが現れた時も、背景に埋もれてどこにいるかわからないピエロに合わせてカメラが移動撮影に移るまで、私は彼がどこにいるのかわからなかった。


それなのに、この最後のショットでは、カメラはそういう移動すらなく、そこで唐突に映画は終わる。一応ここでは私はなんとかピエロを探し出してはいたのだが、さすがにそこで作品が終わるとまでは思っていなかった。当然場内の観客も皆そう思っており、エンド・クレジットが流れ出したとたん、場内騒然になって、で、いったい誰がヴィデオを撮って送っていたんだと、あちこちで騒ぎ出した。


こういう映画では、おかげで隣りに座っていたまったく見知らぬ他人と会話が弾むという効用があり、あちこちで議論の輪ができていた。ロビーで私が聞き及んだところによると、最後のショットでは、自殺したマジッドの息子が階段の上に方にいて、ピエロと会話していたのだという。さすがにそこまでは気がつかなかった。しかし、けれども、そんな、ピエロはロウ・ティーンだが、マジッドの息子は、あれは20歳ぐらいにはなっていたぞ、その二人が同じ学校に通っていたってか? そんなバカな。


しかし、この二人がつるんでいたとすると、すべての設定に無理がなくなることは確かだ。特にマジッドの家の中をヴィデオテープに収めるためには、マジッドの家族の誰かが手引きしていなければならず、それがマジッドの息子だとすれば、すべてに一応の説明はつく。さらに彼には、ジョルジュに対する復讐という、こういう行いをする理由もある。ピエロだって、何かと親に反抗したい年頃だろうし、アンが浮気していると思い込んでいた節があって、親に不信感を持っているために、こういう話を持ちかけられたら乗ってしまうかもしれない。


しかしなあ、それでも、これ、不親切すぎるぞ。本当のこの解釈でいいのだろうかという疑問は残る。あるおっさんは、謎を解明するためにもう一回劇場に来させるための新種のマーケティングの一種だ、なんて珍釈を披露していたが、思わずその意見に傾きそうになる。きっとハネケとしたら、すべてはスクリーン上に提示した、それを正しく判断できるかどうかは観客の責任、みたいに思ってんだろうなあ。ああ、不親切なやつ。


「隠された記憶」は非常にできがよく、ヨーロッパ映画賞でも圧倒的な評価を得ていながら、アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされていない。実は「隠された記憶」は、もちろんアカデミー賞も狙っていたのだが、そこでハネケの母国であり、たぶん資金的にもかなり貢献していると思われるドイツ代表としてアカデミーに出品された。しかしアカデミー賞の外国語映画賞は、ある国の出品作においては、その国の言葉を喋っていなくてはならないという規則がある。そこにひっかかった。ドイツ人のハネケという作品を代表する者の立場からすると、「隠された記憶」はドイツ映画以外の何ものでもないのだが、話される言語という視点から見ると、これは当然フランス映画だ。そのため「隠された記憶」は資格外ということで外国語映画賞の対象にならなくなってしまったのだ。


たぶん、ノミネートさえされたならかなりいい線行ったのは間違いないのに、これではいくらなんでもあんまりという気はしないでもないが、こういう規則があるのもわからないではない。実際、観客の目から見ると「隠された記憶」はどう見てもフランス映画である。パリを舞台にして登場人物がフランス語を喋っているのに、これをドイツ映画だと言われたら、誰でも面食らうだろう。「ブロークバック・マウンテン」が、監督が台湾人のアン・リーであるために台湾映画であると言われたなら、誰だって戸惑うに違いない。要するに、「隠された記憶」は最初からフランス映画として認識されるべき作品だった。あるいは、もう、こういった、どこの国の映画ということにこだわる時代ではないのかもしれない。だいたい、同じ英語を使っているというだけでイギリス映画はほとんどハリウッド映画と同義になるのに、フランス映画やドイツ映画はほとんどアメリカで見る機会はない。どこかで何かが間違っており、どこかで誰かが何かしないといけないと思うのだが、では、どこで誰が何をやればいいのかというと、とんと見当もつかない。


ところで「隠された記憶」は、「Cache」の最後の e の上にアクセント記号が置かれた、フランス語で綴られたままでアメリカでも公開されているわけだが、私は最初、さて、これはなんと発音するのだろう、わざわざ英字で「Hidden」とつけ加えられているということは、あれだろう、コンピュータのキャッシュ・メモリーのキャッシュだろう、しかしフレンチでもキャッシュと発音するとは限らないしな、なんと言ってチケット買えばいいんだろう、この e の上のアクセントが曲者だぞ、と思いながら列に並んでいた。そしたら私の前に並んでいたおばさんが、「キャッシェイ一枚」とか言ってチケットを買っていた。おおそうか、やはり「キャッシュ」ではなかったのか、よかった、恥かかずに済んだぞと思いながら、私も「キャッシェイ2枚」と言ってチケットを買った。


ところが、念のために家に帰ってから仏英辞典で「Cache」を調べてみると、発音は「キャッシュ」となっている。全然キャッシェイでもキャッシェでもなく、やっぱりキャッシュなのだ。要するに、やはり私のようにフランス語がよくわかるわけではないアメリカ人が、見当でキャッシェイとか言っていただけのようだが、その辺はチケット売り場のおばさんも心得たもので、ちゃんとわかっていたわけだ。それにしても、おかげで私も前に並んでいたおばさん同様、また何にもわかっちゃいないやつが来たぜなんて思われていたに違いない。付け焼き刃で物事を人真似なんてするもんじゃないぜ、やっぱり、と思ったのであった。 






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