The Fountain   ファウンテン 永遠につづく愛   (2006年11月)

コンキスタドールの時代、女王イザベル (レイチェル・ワイズ) の命を受けたキャプテン・トム (ヒュー・ジャックマン) は、マヤ文明に隠されたピラミッドの秘密を解くために派遣される。現代。不治の病に犯されたイジー (ワイズ) を救うべく、医者のトム (ジャックマン) は新たの治療法の開発に全力を注いでいた。未来? 大樹の根元で、トム (ジャックマン) は生命の不思議の秘密に迫ろうとしていた‥‥


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リドリー・スコットがおなじみラッセル・クロウを起用して撮った「ア・グッド・イヤー」の評判を聞いてから何を見るか決めようと考えていたら、評価が聞こえてくるどころか、ほぼ完璧に無視されている。スコットは過去に「マッチスティック・メン」のような作品も撮っているし、大作を撮ったら口直しにこのような小品も手がけたくなるんだろうとはわかってはいても、それが人が見たいものだとは限らない。


昨年、弟のトニーが「ドミノ」でこちらもほぼ完全に無視された時は、単純にできが悪そうだと思えたからだったが、「グッド・イヤー」の場合は、単純に内容が誰も別に見たいものではなく、したがって見てないから何も言えない、という感じが濃厚だ。これじゃ口コミでは話が伝わって来ないなと思って、では批評家評はと思って雑誌とかをめくっても、評判は芳しくない。さらに主演のクロウは昨年、ニューヨークではホテルで従業員に携帯投げつけて警察沙汰になるなど、品行不良でこれまた人気が下降気味というのもマイナス材料になった。


その上こういうイタリアものは、既にダイアン・レインの「トスカーナの休日」やハーヴィ・カイテルの「ザ・シャドウ・ダンサー」等で、なんとなくイメージができ上がって人が既に見たような気分になっていることも、特に興味を惹かない理由の一つになっている。これじゃ確かに興行的に成功は難しかろう。このように公開前にネガティヴな要素が大きいことは当然ステュディオ側も察しており、そのため、スコット演出クロウ主演というネイム・ヴァリュウにもかかわらず、「グッド・イヤー」は限定公開となり、私の住むところでは公開すらされなかった。そういうわけで安心して見るのを諦める。


一方、対抗と考えていたその弟のトニー・スコット演出、デンゼル・ワシントン主演の「デジャ・ヴ」は、実は昨年から予告編を見ているのだが、いっかな公開されない。これも大作だから時間をかけて宣伝しているというよりは、冗長な作品をなんとか編集で締めようといたずらに時間をかけていた感触が濃厚で、やっと公開されたわけだが、当然のごとく評は芳しくなく、最近のトニーは今一つしゃきっとしない。


そしてもう一本考えていたのが「ファウンテン」で、実はこの作品もかなり前から予告編自体は見ていた。一般的に言って、超大作というわけでもないのにいたずらに予告編と本編公開の間が空いてしまうのは、選ばれた観客を対象とした試写でネガティヴな意見が多かったから撮り直したり編集し直したりしたためというのがその最大の理由になっていることがほとんどであり、できと評判がいいから年末公開でオスカーを狙うためわざと公開を遅らせた場合でない限り、大抵は黄信号だ。今週は一応見たいかなと考えていた作品が、揃いも揃って評判が今一つだ。


それで決めあぐねた末、「ファウンテン」を見てきた。「レクイエム・フォー・ア・ドリーム」に続く6年ぶりのダーレン・アロノフスキーの新作であり、時空を超えた二人の男女の愛を描くSF仕立ての不思議な寓話である。アロノフスキーは元々出世作の「π」や「レクイエム」等、独特のイメージ感覚を前面に押し出す作風だったが、今回は本当に自分の撮りたいように撮ったという感じで、ストーリーだけを追うと途中で挫折せざるを得まい。わりと好評で、すぐにでも次作を撮れたはずの「レクイエム」と「ファウンテン」の間に6年もの間が空いたのは、この内容はペイしまいと、この作品をプロデュースしようとするプロデューサーが現れなかったせいだと思われる。


実際、自由奔放に三つの時代にまたがる各々のストーリーを紡ぐこの作品は、かなり見る人を選ぶだろう。それぞれの話に登場する人物は同じ人間の生まれ変わりであるばかりでなく、特に大樹の根元で瞑想するトム (ジャックマン) をとらえる篇では、既に場所と時代設定さえ定かではない。たぶん近い将来であり、その大樹がマヤ篇で現れた大樹であることは間違いなかろうが、トムがそこにいるのは、何百年も前のコンキスタドールの時代に、前世のトムがそこを発見したからだとしか思えないが、しかし、そのことが現代や近未来に存在するトムを時空を超えて大樹の根元まで運んでくることになる明確な理由づけになっているとは言い難い。


むろんこれらの話は、現在のイジーが書いた物語の中の話と見ることもでき、近未来のトムの話は、未完に終わったイジーの描く物語に、トムが付け足した最後の一章であると見ることもできる。つまり、色々な見方が可能なのだ。したがって、この作品に話の辻褄合わせを求めるのは最初から無理がある。「ファウンテン」は、そういう不死や輪廻転生、永遠の愛の証明とでも言える作品のテーマをアロノフスキーが奔放なイメージで視覚化しており、私が「ファウンテン」を見て思い出したのは手塚治虫の描いたマンガの数々だ。特に「火の鳥」と「ブッダ」であり、時空を超えて不死の生命や生まれ変わりが現れるのはまさに「火の鳥」であり、大樹の元で瞑想するトムは「ブッダ」を彷彿とさせる。


この種の映画体験は理解するというより体感するものであったりする。どれだけ登場人物に感情移入し、作り手のものの考え方に寄り添えるかがポイントだったりするため、作品にシンクロできると非常に濃密な満足感を得ることができるだろうが、合わない人にとってはなにがなにやらさっぱりわけがわからないだろう。


そういう点を別にして単純に恋愛ものとして見ると、「ファウンテン」は、「X-メン」シリーズやその手の特撮もの以外、特に現代ものに出ているジャックマンをほとんど見たことがない私にとって、ジャックマンが非常にハンサムであることを再認識させてくれた作品だった。なんでこの男がウルフマンなんだ。トニー賞のホストも何度か務めたことがあり、素面のジャックマンがハンサムであることは理解していたはずなのだが、「ファウンテン」ではさらにソフトでセンシティヴなジャックマンが前面に出ている。この手のジャックマンが好きなファンには堪えられないだろう。


一方、その相方のワイズであるが、不思議とこの作品や出世作となった「ハムナプトラ」「コンスタンティン」といった現世外作品と、「ナイロビの蜂」「コンフィデンス」等の地に足がついたタイプの両極端のキャラクターを演じる機会が多い。実はアロノフスキーのガール・フレンドである由で (確か婚約したと聞いたような気がする)、こないだ深夜トークの「レイト・ショウ」を見ていたらゲストに呼ばれていて、「ファウンテン」撮影時の裏話を披露していた。実の恋人の指示に従って別のかなりハンサムな男とラヴ・シーンを演じているわけだが、もっと感情込めてやれと叱咤されたそうだ。そのせいもあってか、「ファウンテン」におけるジャックマンとワイズのラヴ・シーンはなかなかできがいい。なるほど「ファウンテン」はそういうアロノフスキーのアンビバレンツな気持ちがこもっている作品であるのだなと察せられるのであった。それにしてもジャックマンはいったい何を悟ったのか悟らなかったのか、あるいは悟ることではなく、悟りを求めることにこそ意義があったのか‥‥







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