第二次大戦時リトアニア。幼いハンニバルとその家族は戦渦に巻き込まれ、ハンニバルと妹のミーシャだけがかろうじて生き延びる。しかしならず者のはぐれ軍人たちがハンニバルとミーシャの住む家に居座り、さらに凍てつく冬に食糧も尽き、男たちはミーシャを殺して食べてしまう。ショックで口がきけなくなったハンニバルは、孤児院にされた元自分たちの住んでいた城で十代の半ばまで過ごすが、ある日脱走してベルリンの壁を越え、叔父と叔母の住むパリを目指す。しかし叔父は既に死亡しており、叔母のレディ・ムラサキ (コン・リー) がハンニバル (ギャスパー・ウリエル) の面倒を見るようになる‥‥


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トマス・ハリス原作のハンニバル・シリーズの最新作「ハンニバル・ライジング」の映像化。ハリスはこのシリーズ以外で書いている長編はデビュー作の「ブラック・サンデー」しかなく、ハンニバル・シリーズも「ライジング」を含めて4作しかない。その全部がTV化か映像化され、それも何度も映像化されている作品もあるなど、スティーヴン・キングを別にすれば当代きっての映像向き作家の代表と言えよう。


ハンニバル・シリーズは、なんといってもそのハンニバルというキャラクターを生み出したことが成功のポイントだった。カニバリズムというのはたぶん世にあるタブーの中でも最も強くこいつをしてはいけないという制御機能が働く、最終的なタブーの一つであることは間違いないだろう。これをやると人間の文明や存在基盤が根底から揺るぎかねない。むろんカニバリズムを行ってきたという稀少な習わしを持つ種族というのもなくはないが、そういう稀少民族がいることでよけいそのタブーを強力にしているというような印象を受ける。


初期の頃の作品としてのハンニバル・シリーズがうまいのは、そのカニバリズムを趣味にしているという中心キャラクターのハンニバルが表には出ず、裏方としてその他の主要キャラクターを影から操り影響を及ぼすという構成の妙が光っていたところにある。「マンハンター」あるいは「レッド・ドラゴン」、それに「羊たちの沈黙」では、主人公は明らかに元FBIのグラハムと現FBIのクラリスであるが、ハンニバルという存在がなかったらこれほど面白くはならなかったのは言うまでもない。


そのクラリスとハンニバルがほぼ同格、というか、はっきりとハンニバルの方に重心が傾いたのが「ハンニバル」であり、ハリス自身もむしろハンニバルの方に魅力を感じてきたことが窺える。そしてそのハンニバルの生い立ちまで遡って、なぜ、どのようにしてハンニバルという人間が生まれたかを描くのが、この「ハンニバル・ライジング」だ。


ハンニバル・シリーズがなぜ映像化向きかというのは、むろん素材が持つそのエログロさにある。想像力に強く訴えかけるカニバリズムは、見せても見せなくても相応の効果が期待できる。実は見せずに観客に想像させてはらはらどきどきさせることを選んだジョナサン・デミの「羊たちの沈黙」と、見せまくって度肝を抜いたリドリー・スコットの「ハンニバル」で、どちらが上かと議論することには意味がない。結局両者とも別の意味でよくできているからだ。ここで作品の優劣を云々するのは、趣味の問題でしかない。


「ハンニバル・ライジング」では、彼がカニバリズムに淫するようになった最初の契機が描かれる。第二次大戦時、リトアニアで戦渦に巻かれ、親兄弟をすべて失ったハンニバルは、ならず者の軍人にその時妹のミーシャと一緒に住んでいた家に押し入られる。戦時下で食べるもののない冬の真っ盛り、ついに男たちははミーシャを殺して食べることを選択する。ハンニバルのカニバリズムはそのことに端を発しているのだが、罪人としてクラリスやグレアムに獄中からアドヴァイスしていたハンニバル自身、幼い頃のトラウマから逃れる術はなかったのだ。むしろ、だからこそハンニバルには極悪非道の犯罪者たちの気持ちや行動原理がわかる。


カニバリズムを描く作品としての「ライジング」は、方法論としては「ハンニバル」よりも「羊たちの沈黙」に近い。つまり、ミーシャを食べるというシーンにしても、彼女を殺したり食ったりするというシーンが直接描かれるわけではない。むろん観客を楽しませるのに充分なくらいのエログロ・シーンは入っているが、やはりミーシャを食べるという描写を入れる度胸は製作者の誰にもなかったろう。私としては、一応そういうシーンも撮影だけはしといて最終的にどうするかは編集の段階で決めるつもりだったのではないかと思うが、いずれにしてもそのシーンが日の目を見ることはなかった。そういうもんだろう。もしそれが公になってしまったら、実際に食べられてなくてもミーシャを演じた子が充分トラウマになりそうだ。


ハンニバルはその後ショックで口がきけなくなり、ハイ・ティーンになるまでほとんど唖同然で孤児院で過ごす。そこから脱走して、東西ベルリンを隔てていた鉄条網を破って西側に入り、叔父夫婦のいるパリに辿り着く。しかしそこでは既に叔父は死亡しており、ハンニバルは叔父の未亡人であったレイディ・ムラサキの庇護を受けて医学校に通う。そこでハンニバルの才能というか嗜好が確立するわけだ。


レイディ・ムラサキとして最初、邸宅の窓ガラスを通してコン・リーが出てきた時には驚いた。まさかハンニバル・シリーズでアジア人が話に絡んでくるというのもそうなら、それを演じているのがリーというのもそうだ。しかも当然源氏物語ゆかりのレイディ・ムラサキという名が示すように、リーが演じているのは日本人で、ハンニバルの叔父と結婚していた。叔父は既に死去していたが、レイディ・ムラサキの係累は広島の原爆によって死に絶えていたため、日本に帰っても意味のない彼女はパリに留まって暮らしているという設定だ。


このレイディ・ムラサキ、屋敷内の一部屋に鎧兜や刀を祀っており、そこにこもって祈りを捧げるのが日課というか、生活の重要な一部である。彼女はハンニバルに礼節の尊さや剣術を教え込む。むろんこの伏線は後で効いてくるのだが、例えば、ミーシャを食べた奴らの復讐に走るハンニバルが、脇差しを背中に差して夜のパリを動き回ったりする。まるで忍者だ。


日本人の目から見ると鎧兜の描き方等、奇異に映る点もないではないが、しかし、リーが日本人という設定自体にはおかしな点はない。ここでは他に日本人が登場するわけではないため、リーが日本語を使って違和感を与えることがないし、「SAYURI」のように和服を着ているわけでもないため、特に日本人と意識させるわけではないからだ。一方、エイジアンの不幸系面構えの女優としては他に並ぶ者のないリーは、ここでも存分にその存在感を発揮しており、非常に楽しませてくれる。「マイアミ・バイス」もそうだったが、いつの間にやらチャン・ツィイーよりリーの方がハリウッドで活躍する地盤を築き、重宝されているようだ。


一方、主演のハンニバルに扮するギャスパー・ウリエルも、ハンサムで非情なハンニバルとして魅力を振りまいている。多少苦情を言わせてもらうと、彼はハンサム過ぎてこれがさらに歳を重ねるとアンソニー・ホプキンスとなることが想像できない。面長のウリエル、丸顔のホプキンスであるだけになおさらだ。いくら歳月を経ても、顔の輪郭までは変わらないだろう。しかしまあ、ハンニバルのことである、のちに犯罪者となって追っ手の目をくらますために整形して輪郭にも手を入れたということは充分考えられる。多少ムリムリではあるが、製作者もそういう言い逃れが充分利くことを考慮してのウリエルの起用に違いあるまい。ウリエルは「かげろう (Strayed)」でも謎めいた青年を好演しており、こういう陰のある役が非常によく似合う。


他に重要な役としては、HBOの「ワイヤー」に出ているドミニク・ウエストがパリ警察の刑事として登場する。演出は「真珠の耳飾りの少女」のピーター・ウェバー。音楽は一枚看板ではないが「2046」の梅林茂が担当している。リトアニアで生まれた人食いの話に日本で生まれた女性が絡み、実はそれを演じているのはフランス人と中国人、その主要登場人物がパリで出会ってなぜだかみんな英語で会話しているという、よく考えれば途方もなくとんでもない話をさもなんでもなさそうに撮ってしまう。この無国籍性は、たぶん昨年の「上海の伯爵夫人 (The White Countess)」以来だな、出演者のほとんどが出自をごまかしているという点では、倒錯度は「SAYURI」といい勝負か、などと思いながら充分楽しんで見たのだった。







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Hannibal Rising    ハンニバル・ライジング  (2007年2月)

 
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