貧しい漁村に生まれた千代 (大後寿々花) は、姉と共に花街の置屋に売られてくる。別々の境遇に置かれ、顔を合わすこともままならない二人だったが、やっとのことであった姉と逃げ出そうと画策していたその日、千代は家を抜け出すことに失敗して屋根上から転落する。その日以来千代は二度と姉に会うことはなかった。くじけ気味だった千代はある日、会長 (渡辺謙) と呼ばれる男にかき氷をおごってもらう。芸者に囲まれて去っていく会長を見つめていた千代は、いつか自分も芸者になろうと決心する‥‥


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言わずと知れたアーサー・ゴールデン著の世界的ベストセラー「さゆり」の映像化であるが、そもそも、花柳界という特殊な世界についての話をアメリカ人が書き、それが世界的ベストセラーになって、ハリウッドが主要登場人物をやはり日本人以外の俳優を用いて映画化したという経緯が倒錯的である。


だいたい、芸者の世界なんて日本人にとってもよくわからないものだろう。たぶん、京都に住んでいる者の、そのまた一部の人間以外にとっては、死ぬまで足を踏み入れることのないまったく別の世界の話だと思う。この世界の内情に通じているものは、せいぜい1,000人、多くても1万人を超えることはないのではないか。それなのに、よりにもよって原作を書いたのはアメリカ人だ。


つまり、この作品は最初からそういう、部外者から見たある特殊な世界という構造でできており、したがって、それをハリウッドの面々が現地俳優を起用せずに製作したとしても、なんとなく納得できてしまうようになってはいた。元々、こういう換骨奪胎はハリウッドが最も得意とするところである。人気があるならば原作の映像化に躊躇する理由なぞどこにもない。


しかし、それでも、日本人として登場する主人公格の3人が実は日本語を解さず、それなのに日本人という設定で、しかも英語を喋っており、その英語ですらたぶん主演のチャン・ツィイーにとっては外国語に過ぎず、ここ数年必死に勉強したんだろうというのはそのセリフ回しからも窺えるが、それでも、なんでまたここまで手間ひまかけてわざわざ状況をややこしくする必要があるかと思えるのを、資本主義という一言で納得させてしまうところが、ひとえにハリウッドのハリウッドたる所以でもある。


一方、着物を着ての立ち居振る舞いは、実はもう、ある年代以下の日本の女性も外国人女性もほとんど経験がないという点で変わらないだろう。ツィイーを筆頭に、ミシェル・ヨーやゴン・リーはその点では、別に主演を日本人女優に限る必要はない。実際、特訓したという甲斐あって、彼女たちは見事に和服を着こなしている。特にヨーの気品やリーの崩れ方など実に見事なもので、これが岩下志麻であればどうだったろう、とか、黒木瞳なら、なんて考えないわけではないが、しかし、この話は架空の世界の倒錯を楽しむためのものなのであり、そういう指摘はひとまず当たらない。実際、日本人女優としては子役の大後寿々花を除いて最も重要な役のパンプキンを演じる工藤夕貴が、彼女だけ途中から洋装に転ずるというまたもやの顛倒には目眩がしそうだ。


さらには、主要な女性役の中でなぜパンプキンだけが、パンプキンという英語の名前をもらっているのか。もしかして原作ではカボチャちゃんとでも呼ばれているのか。桃井かおりですらマザーではなくおかあさんと呼ばれているのに、だったら、工藤もカボチャちゃんでいいじゃないか。なにもわざわざここだけ英訳することもあるまいと思っていたのだが、原作でこう呼ばれていたか (注: あとで調べたら工藤の役名はおカボになっていた。) いずれにしても、一人だけ英語の名前をもらい、皆が和服の中で洋服に着替えるパンプキンは、どうしてもどこかで主人公を罠にかけるか陥れるかしなければならないのは、これはもう必然である。工藤もなかなかおいしい役をもらっているじゃないか。


他方、パンプキン同様、男優で英語名で呼ばれるのは、会長を演じるチェアマンこと渡辺謙と、バロン役のケリー・ヒロユキ・タナカの二人である。その他にもいるが、基本的に彼らは役職名、爵位名で呼ばれているわけであり、パンプキンと呼ばれるのとはわけが違う。当然、ここでは一人だけのぶさんと名前を呼ばれる役所広司が男側の主要人物という気がするが、そうではなく、会長が主人公ということになっている。うーむ、わかりづらい。


「SAYURI」は結局のところ、主人公の千代/さゆりが幼い時に経験した年上の男性との淡い思い出を忘れずに成長し、しかもその後ろにはいつもその男性がいたという「足ながおじさん」の骨格を持っている。で、なんとなく足ながおじさんというと、渡辺より役所の方が合っているんじゃないかなあと思う。役所と較べるとここでの渡辺は、どちらかというとにたにたしたスケベおじさん的な印象の方が強い。「ザ・ラスト・サムライ」「バットマン・ビギンズ」にも出た渡辺の方が世界ではネイム・ヴァリュウが高いからというそれだけのせいでのキャスティングのような気がする。役所だって日本映画最大のヒット作である「Shall We Dance?」に出てるんだぞ。


「SAYURI」は、こういう、話としてはごく単純なサクセス・ストーリーものでありながら、予想や期待からかすかにずれている顛倒や倒錯が随所に溢れている。英語圏の観客に事情をわからせる必要があるとはいえ、ばばあがラジオでわざわざ英語局を聞くかと思ってしまう。たぶん、英語国でないヨーロッパ諸国が舞台となる映画で主人公が英語を喋る映画の舞台となった国の観客は、多かれ少なかれこういう印象を抱くんだろう。


いずれにしても「SAYURI」は一昨年の「ラスト・サムライ」がなかった場合、製作は難しかっただろう。「ラスト・サムライ」では主人公のトム・クルーズはアメリカ人のままという設定であるから英語を喋るのは当然であったし、その他の者も渡辺謙は苦しいながらも英語が喋れる理由づけもしてあった。その点、堂々とほぼ全員が当然のごとく英語を喋る「SAYURI」と「ラスト・サムライ」の間には一線が引かれているが、「ラスト・サムライ」がなければ「SAYURI」がこうも簡単に人々に受け入れられることはなかったろうというのは言える。


第一、エドワード・ズウィックがいなかった場合、このような日本日本した映画を、たとえヴェテランといえどもハリウッドの監督に演出させるというのはやはり躊躇したろうと思う。ズウィックが、ハリウッド監督でもサムライ映画は撮れるというのを証明したからこそスティーヴン・スピルバーグは最初乗り気になったのであり、最終的にロブ・マーシャルに頼むことにもなった。そして実際、マーシャルは要所要所を手堅く押さえている。


やたら華美とか人情の機微が日本人らしくないなんて話も出てきそうだが、それこそをこの作品が狙っている時に、なんで市川崑じゃだめだったんだ、せめて五社英雄が生きていたらなあなんて言ってもしょうがない。だいたい、さゆりのお披露目の舞いなんて見事にケレンたっぷりの歌舞伎になっていたと思うのだが、そんなことを言うとお叱りを受けてしまうのだろうか。日本人じゃなくても着物は着こなせ、しかもそれに対してほとんどの日本人が洋服を着ているという (桃井かおりですら後半は洋装なのだ) 顛倒、倒錯、意外性こそを楽しむべきだろう。


とはいえ、やはり日本を舞台とした映画で主人公が日本人ではないという事態には一抹の寂しさを覚えないではない。しかし、ここでの大後を見る限り、別に人材がいないわけではなさそうだ。単純に現段階で世界的な知名度を持つ女優がいなかったというだけの話だろう。それも徐々に変わっていくのは間違いあるまい。こうやって映画界はさらに面白くなっていく。






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Memoirs of a Geisha   SAYURI  (2005年12月)

 
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