貧しい一家に生まれたグリート (スカーレット・ヨハンソン) は、家を出て、当時既に名を成した画家であるフェルメール (コリン・ファース) の家に住み込みで働くようになる。フェルメールは子だくさんで、妻カタリーナ (エジー・デイヴィス) は猜疑深く、娘たちもグリートに辛く当たる。しかしフェルメールはグリートに絵の素養があることを見てとり、グリートを屋根裏部屋に住まわせ、自分の絵を手伝わせるようになる。しかしそれはさらに家族の者から疑惑を招くだけの結果にしかならなかった‥‥
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フェルメールの描いた絵の中では、たぶん最もよく知られ、人気のある「真珠の耳飾りの少女」をモチーフに、その由来を描いたトレイシー・シュヴァリエの同名原作の映像化。主人公の、その絵のモデルになる少女グリートを演じるのがスカーレット・ヨハンソンで、これでヨハンソンは「ロスト・イン・トランスレーション」に続いて話題作への主演、さらに新作の「ザ・パーフェクト・スコア (The Perfect Score)」が公開と、順当にキャリアを築いている。
実在する一枚の絵をモチーフにしているから当然なのだが、映画はその絵、「真珠の耳飾りの少女」を中心に収斂していく。初めはヨハンソンが別にモデルとなったその少女に似ているとはまったく思わなかったのだが (ヨハンソンの方がよほど美人)、最後の方になると、まったく違和感なくなっていた。不思議。もちろん最後にどアップになったオリジナルの絵と見較べるとやはり別人なのだが、当時の衣装を着て、できるだけフェルメールの絵に似せた色調とライティングのせいで、雰囲気がそっくりになっていく。ヨハンソン自身、演じていながらそういう気分を味わうのかなと思いながら見ていた。
一方のファース演じるフェルメールは、絵だけに人生を捧げており、最初、家人に虐められるグリートにあまり援助の手を差し伸べようとせず、グリートに懇願されてやっと助け船を出すという感じで、人間としてはそれほどできた人間という感じはしない。しかしグリートの素養を見てとる確かな目も持っている。結局フェルメールは家人とグリートの間で板挟みとなって、それでもグリートをモデルに描いてみたいという芸術家としての本能は捨て去ることはできない。結局、家族に内緒でグリートの絵を描き始めるのだが、もちろんそれは事態を紛糾させるだけの結果にしかならないのだ。芸術家って、やっぱり自分のことしか考えてないんだな。
監督のピーター・ウェバーはTV畑出身の人のようで、これが初見だが、丁寧に撮っている。撮影も、フェルメールの絵やその時代の陰影に富んだ色調やタッチを忠実にスクリーンの上に再現しようとしており、その点でエデュアルド・セラの撮影は、当然のように美しい。当然今後続々と発表される賞取りレースでも、「シービスケット」と共に撮影部門でほとんどの賞に引っかかってくると思われる。
こういうコスチューム・プレイは、異なる時代、異なる世界の生活ぶりが覗けるという楽しみもあるが、「真珠の耳飾りの少女」も、その辺、時代考証は徹底しているようで、細部にわたって神経の行き届いた絵を見せる。特に衣装に限ると、あの襟巻きトカゲのようなカラーは、機能性まるでなさそうでやはり不思議だが、ヘンなりにデザインとしてはまとまっているという印象を受ける。グリートや身分の低い女性が被る頭巾だかキャップだかの形も、肉体労働には不向きという気がするが、いざとなるとナプキンとしても機能するのかもしれない。しかし、グリートはつき合い始めた男に最初髪を見せず、あんたの髪の色は何色かと訊かれてブロンドだと答えるのだが、慎ましい女性が髪を隠すというのは、わりと世界共通の認識であるようだ。あるいは、女性の髪は何か特別の力を持つと世界中で考えられていたとも言えよう。
ところで最近フェルメールが流行っているのか、「真珠の耳飾りの少女」よりも前に、スーザン・ヴリーランドの「ヒヤシンス・ブルーの少女 (Girl In Hyacinth Blue)」が、わりとロング・セラーになっていた。こちらはフェルメールの描いたとする架空の絵を媒介に、時代を超えて話が展開するという筋書きになっている。既に昨年、CBSがグレン・クロース、エレン・バースティン等のなかなかの俳優を起用してTV映画化 (「ブラッシュ・ウィズ・フェイト (Brush with Fate」) して放送したばかりだ。
フェルメールを題材にした本が連続して映像化されているので、ふと思い立って日米両方のアマゾン・ドット・コムで調べてみたら、アメリカ版の「Girl in Hyacinth Blue」を除き、すべて表紙にこの、「真珠の耳飾りの少女」の絵が使われていた。「Girl with a Pearl Earring」原作及び翻訳は、当然この絵が主題として使われているので当然だろうが、日本版「ヒヤシンス・ブルーの少女」の表紙にまでこの絵が使われているのはいかがなものか。題材となっているのはまったく架空の絵なのにこの絵が使われると、読み手が混乱するような気がするのだが。
一方で、架空の絵のはずのこのフェルメール作品を、実際に一枚の絵として描いて表紙に持ってくるというアメリカ版「Girl in Hyacinth Blue」の方も、これはこれで、本当にこんなことしていいの、もしかしてこれこそ本当に読者を混乱させる原因になるのではという気もしないでもない。文章で説明されている絵を、頭の中で創造で補いつつ読むからこそという醍醐味も原作にはあるはずなのに、それを読者サーヴィスかなんかか、実際に描いてみるという姿勢が、日米のものの考え方の違いというか、マーケティング手法の違いというか。私の意見では、どちらも混乱の元だから絵なんか入れなければいいのにと思うのだが。きっと同じフェルメールの絵を見ていても、日本人とアメリカ人ではかすかに感じ方が違うんだろう。