Strayed (Les Egares)   かげろう  (2004年5月)

第二次大戦時、ドイツ軍パリ侵攻の情報に怖れをなしたパリ市民は、我がちにパリ脱出を急いでいた。独空軍機の襲撃により道を離れ、森の中へと逃げ込んだオディール (エマニュエル・ベアール) と、息子のフィリップ (グレゴワール・ルプランス-ランゲ)、娘のキャシーは、まだ若い青年イヴァン (ガスパール・ウリエル) により難を逃れる。イヴァンは3人のために森の中の、住人が避難した後の家を見つけ出し、あれこれと面倒を見てくれる。しかしイヴァンには謎の部分が多かった‥‥


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今週から「デイ・アフター・トゥモロー」が始まった。こないだTVでFOXにチャンネルを合わせていたら、なんとレギュラー番組を一時的に棚上げにし、映画のさわりを20分にわたって見せていた。クライマックスを20分も先に見せられたりなんかしたら、私なんかもうそれで充分満足して劇場に行く気がなくなってしまうので、慌ててチャンネルを替えたのだが、これを見てまたさらに、よし、映画館にも行こうという人たちが世の中には結構いるのだろうか。


いずれにしても、というわけで、これは混みそうだと今週は「デイ・アフター・トゥモロー」はパス、先週「トロイ」なんてやはり大作を見てるわけだし、今回はアンドレ・テシネ監督、エマニュエル・ベアール主演の「かげろう」を見に行く。今後もずっと大作と小品を交互に見れるような感じで新作が封切られてくれると嬉しいんだが。


しかし、なんだな、フランス映画って、少なくともアメリカで公開される作品に限ると、最近、こういった感じの小品が多いようだ。街里離れた、限られた環境下での限定された登場人物を描くミステリアスな舞台設定というと、話自体は違っても、骨格としては、昨年のフランソワ・オゾンの「スイミング・プール」を思い出すし、そのオゾンが3年前に撮った「まぼろし」と「かげろう」は、原題はともかく日本語のタイトルの印象がまたまたそっくりだ。しかも「まぼろし」も、ヴァカンスに訪れた別荘が印象的な舞台となっており、「かげろう」の主要舞台である人里離れた一軒家同様、印象を残す。ついでに言うとオゾンの一昨年の「8人の女たち」も、やはりほとんど一軒家の中だけで話が進んでいた。


さらに言うと、フランス人ではないベルナルド・ベルトルッチがパリで撮った「ドリーマーズ」は、時代も違い、パリという都会が舞台のくせに、やはり基本的に二人の男と一人の女がパリの一軒家で過ごすという、ほとんど最初と最後を除いてカメラが家の外に出ないという設定だった。最近のフランスでは、なぜだか人は内向していくようだ。あれほど美しい街並みで、人々がお洒落と恋愛にこそ情熱を燃やすフランスという国において、基本的に室内劇が主体という印象が強いのは、最終的に、フランス人の興味の対象が人間に向かうからという気がする。


「かげろう」も室内劇という印象が濃いわけだが、これまた「まぼろし」同様、だからといって室内シーンばかりというわけではない。どちらかというと登場人物は、戸外にいることの方が多い。それでも閉ざされた世界、限られた人間関係の中での心理劇といった要素が、室内劇でも見ているかのような錯覚を起こさせる。つまり室内劇という印象は、特に登場人物の心理の機微を描くことに重点を置いているからこそで、考えたら、それこそ昔から多くのフランス映画が得意としてきたことに他ならない。どんなに整った街並みを作り上げ、 美しい自然の中にいても、それでも結局、見ているものは人間の内部なのだ。その目に見えない内部になんとか手触りを与えようとして、お洒落に気を配ったり、街並みを気にしたりするのだろうか。


一方、ほとんどすべての映画は人間を描くわけだが、だからといって映画という映画がすべて室内劇になる、あるいは室内劇を見ているような印象を与えるわけではない。同様の低予算人間ドラマと言えるロシア映画の「ザ・リターン」が、ほとんど全編、戸外で雨がずっと降っていたような印象があり、たとえ登場人物の一人が洞穴に閉じ込められていようとも、ベクトルが外に外に向かっていたような「ぼくは怖くない」を思い浮かべると、その差は歴然としている。


「かげろう」の軸となる謎は、オディール一家を助けてくれた謎の青年、イヴァンが果たして何者かということだ。息子と娘を守らなければならない立場にいるオディールは、この青年イヴァンに惹かれるものを感じてはいても、母親という立場の方が優先して自分の気持ちを自分で確かめる余裕すらない。そのため、二人の関係の進展はほとんどなく、どちらかというと前半は、イヴァンとフィリップ、キャシーとの間に友情のようなものが芽生えるところを描くことに重点が置かれている。見ようによっては主人公は、家族で唯一の男手であるフィリップであり、彼の成長譚のように見えなくもない。


それがやはり、段々、イヴァンとオーディールとの関係にシフトしていくところが「かげろう」の醍醐味なのだが、その展開は実にゆっくりと進んでいく。しかし、それでも着実に二人は惹かれあっていくのであり、やはりこういう関係を描かせると、フランス映画はうまい。とはいえ、なんか、本人が思うが思うまいが感情の駆け引きになってしまうという感じで、本当に彼らにとっては恋愛は生き死にの問題なのだなと、改めて感心してしまう。歳の差がいくつあろうが、子供がいようがいまいが関係ないのだ。フランス語に不倫を意味する単語はあるのだろうか。あっても別に、ネガティヴな含意はないんだろうなという気がする。


主演のオーディールに扮するベアールは、いかにもヨーロッパ的な癖のある美人で、彼女は、ハリウッド映画で主演を張るのは無理だと思うが、まあ、本人もハリウッド映画に出たいなどとは思うまい (まあ、「ミッション・インポッシブル」には出ているわけだが。) 特にあのちょっと突き出た唇の両端がいつも心なし持ち上がって、微笑しているような、こちらをバカにしているような、ちょいとばかり謎めいたコケティッシュなところは魅力的。フランスでも新星であるらしいウリエルもいい顔をしている。彼に惚れる特に歳上の女性は多いだろう。フィリップ役のランゲは、ハーリー・ジョエル・オスメント坊やを彷彿とさせる。


「ぼくは怖くない」の時にも思ったのだが、ヨーロッパ映画では、小麦畑 (だよな?) がとても絵になる。「かげろう」でも小麦畑を縫ってオディールたちが逃げていくのだが、これが日本映画だと、稲穂を縫って走ると、水田だから泥だらけになってしまい、足をとられ、どうしても疾走感は出しにくい。というか、何者からか逃げる時に、人はわざわざ水田の中は走らないだろう。あるいは、黒澤が得意としたような、地に足のついた泥だらけの重量級アクションになってしまい、それはそれでエキサイティングなものにはなる。いずれにしても、主食が違うと、当然ながら文化も、つまりは映画という媒体の手触りもだいぶ異なるなと改めて思うのであった。






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