True Grit


トゥルー・グリット  (2010年12月)

暴漢のチェイニー (ジョシュ・ブローリン) に父を殺された少女マティ (ヘイリー・スタインフェルド) は、復讐を誓う。彼女は態度は悪いが腕は一流と評判の保安官コグバーン (ジェフ・ブリッジス) を雇う。さらに別の罪を犯していたチェイニーを追っていた、テキサス・レンジャーのラブーフ (マット・デイモン) もその追跡行に加わる。コグバーンとラブーフは、少女は足手まといになると二人だけで黙って出発するが、マティはその後を追いかけ、強引に一行に加わる。しかし実際にその行程は厳しく、何度もあと一歩の所でチェイニーも取り逃がす‥‥


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2007年の「ノー・カントリー (No Country for Old Men)」の後、2008年は「バーン・アフター・リーディング (Burn After Reading)」、2009年は「ア・シリアス・マン (A Serious Man)」、となると、これまでの流れから言って今年こそは「ノー・カントリー」的なシリアスなクライム・ドラマのはずと期待して待っていたコーエン兄弟の新作は、待望のアクション・ドラマ「トゥルー・グリット」。ヘンリー・ハサウェイ監督、ジョン・ウェイン主演の1969年の同名西部劇 (邦題「勇気ある追跡」) のリメイクだ。


コーエン兄弟の新作ということはともかく、最近、なんかリメイクを見る機会が多い。マット・リーヴスがスウェーデン製ホラー、「ぼくのエリ 200歳の少女 (Let the Right One In)」のリメイク「レット・ミー・イン (Let Me In)」を撮り、ポール・ハギスが仏製ドラマ「すべて彼女のために (Anything for Her)」のリメイク「 ザ・ネクスト・スリー・デイズ (The Next Three Days)」を撮り、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクが「アントニー・ジマー (Anthony Zimmer)」リメイクの「ツーリスト (The Tourist)」を撮った。


私はあまりリメイクというのは好きではないが、これらはすべてオリジナルを見ていない。「ネクスト・スリー・デイズ」のように、見終わってからリメイクと知った作品もあり、こういうのはリメイクを見なかったら一生知らないままだったろうと思える。だから必ずしもリメイク反対というわけでもないが、しかしハギスだけでなくコーエン兄弟までリメイクか。


もっともコーエン兄弟の場合、元々リメイクかどうかということに特にこだわってはいない節がある。彼らが古典に造詣が深く、映画の歴史に詳しいことはその作品を見れば明らかだが、例えばシェイクスピア作品を映像化する時に、演出家がこれはリメイクだとかいちいち考えないだろう。ごく自然に「リア王」や「十二夜」に取り組むと思う。コーエン兄弟の作品から受ける印象もそれと同じだ。クラシック作品は繰り返し語られ、クラシック音楽は繰り返し演奏される価値がある。だからそれに挑戦したかったまでのことだ。リメイクとは、オリジナルに対する最高級の賛辞でもある。時には先達に対する敬意を表明するのも悪くはあるまい。


まあオリジナルを見ているわけではないから、今回のリメイクがどこまでオリジナルに忠実なのかはわからない。比較はできないが、そこここで読んだものを総合すると、少なくとも大筋に違いはないらしい。西部劇というものは時代劇同様型というものができ上がっているから、そこにはあまり手は入れられないんだろう。実際、リメイクということがわからなくなるほど手が入れられていたら、今度はどこにリメイクを作る意味があるかということになってしまう。


西部劇のリメイクというと、どうしても3年前の「3時10分、決断のとき (3:10 to Yuma)」を思い出す。あれもまたクラシックと言われてはいるが、西部劇ファンの枠を超えて知られている作品かというと、それは難しい。今回の「トゥルー・グリット」もまさにそうだ。西部劇は嫌いではないし、クラシックと言われている作品はだいたい見ていると思っていたが、「3時10分」はタイトルすら初耳だったし、「トゥルー・グリット」も、「勇気ある追跡」という邦題以外は中身はまるで知らなかった。これでも昔、かなり西部劇を熱心に見ていた時期もあるんだが、まだまだ知らないことは多い。


「トゥルー・グリット」は、父を殺された少女がその復讐を遂げるために手練れの男を雇い、父を殺した男の後を追うという物語だ。設定だけを見ると、なんのとこはない時代劇で見慣れた構造とほとんど一緒なのだが、そこは西部劇、その少女が馬に乗って自ら銃を持ち、年上の男を相手に言い負けることなく臆さないなど、いかにも進取の気性のアメリカらしい性格付けだ。


その少女マティを演じるのがヘイリー・スタインフェルド。様々なアウォーズで女優賞にノミネートされているので最近見る機会が多いが、既に撮影の時より身長もだいぶ伸びて大人びた。本人と知らなかったら気づかないだろう。マティが雇うマーシャルのコグバーンを演じるのがジェフ・ブリッジス、その追跡行に加わるテキサス・レンジャーのラブーフをマット・デイモンが演じている。


一般的に西部劇や時代劇は、勧善懲悪、もしくは正邪の境界がはっきりとしているという印象がある。型やセオリーができるからにはそれが当然だろう。しかし、「3時10分」や「トゥルー・グリット」は、そういう範疇にくくれない。一応建て前としては、「トゥルー・グリット」では殺された父の復讐を誓う少女とその一行が主人公=善で、「3時10分」では家族のために犯罪者の護送を志願する主人公が正義の側に立つ。


しかし、「トゥルー・グリット」も「3時10分」も、見ているうちにそういう正義とか悪者とかいう観点がだんだん曖昧になってくる。「3時10分」では主人公を演じるクリスチャン・ベイルよりも、護送されるガン・マンを演じるラッセル・クロウの方にだんだん感情移入していく。「トゥルー・グリット」では悪者を追いかけるマーシャルのコグバーンは、見ようによっては悪漢どもよりあくどい。


アウトローどもを撃ち倒すだけならまだしも、明らかに人種差別主義者のコグバーンは、インディアンの少年を人間と見なしていない。目の前に少年がいると、平気で蹴り倒す。金のためならあくどいことも平気でやるし、実は銃の腕だってそれほどでもない。客観的に見て、ひと言で言い表すとただの飲んだくれだ。しかし彼はトゥルー・グリット -- 男気を持つ男として知られ、そのためにマティに雇われる。それでも、映画の前半部だけで彼に感情移入して見るのはかなり難しい。


そのコグバーンに対置するように登場するのがテキサス・レンジャーのラブーフで、彼は正義は正義、悪は悪というものの考え方をする人物だが、その正義の味方が、だからといって常に力を持っていたり銃の腕が立ったり格好よかったりするとは限らない。それなりに見かけには気を配っているようだし、人間的にもよほどコグバーンよりできているようだが、見かけやものの考え方だけでは西部の荒野では生きていけない。必要なのは生きていくのに必要な現実のスキルとタフさ、時には狡猾とも言える慎重さなのであり、そしてそれこそがトゥルー・グリットなのだ。マティは彼らと行動を共にしながら、徐々にそういう現実を学んでいく。


糞くらえ野郎にしか見えないコグバーンは、しかし自分の生き方には忠実であり、自分が守らなければならないと信じるものは何ものを犠牲にしてもその仕事をまっとうしようとする。同じ人種ではないインディアンは人間と見なさないし、クズのアウトローを撃ち殺すのをまったく躊躇わないし、馬は人を背に乗せて走る移動手段以外の何ものでもないが、しかし、引き受けた仕事はやり遂げる。満天下の星の下をマティを抱えて走るコグバーンには、思わず胸が詰まる。コーエン兄弟も、きっとこのシーンが撮りたくてたまらなかったんだろう。








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