Burn After Reading


バーン・アフター・リーディング  (2008年9月)

スポーツ・ジムでトレイナーとして働くリンダ (フランシス・マクドーマンド) は、自分の容姿が気にかかり、美容整形手術を受けようとしていたが、保険会社はその申請を認めない。一方、CIAで働くオズ (ジョン・マルコヴィッチ) はクビを宣告される。妻のケイティ (ティルダ・スウィントン) は既にオズに愛想を尽かして秘密裏に離婚の手続きを進めようとしており、ハリー (ジョージ・クルーニー) という浮気相手もいた。ケイティは離婚時に自分に有利に事を運べるようオズの言動を記録してディスクに保存していたが、それを落としてしまう。たまたまそれを拾ったリンダはこれを国家機密と思い込み、同僚のトレイナーのチャド (ブラッド・ピット) を巻き込んで、ディスクをネタにオズを強請ろうという計画を立てる‥‥


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だいたいシリアスな作品とコメディを交互に撮るコーエン兄弟の新作は、「ノーカントリー」の次作ということもあり、コメディ系の「バーン・アフター・リーディング」だ。いまだに「ノーカントリー」の印象が強烈なので、なに、もう新作と思いそうになるが、「ノーカントリー」自体は昨年の早い時期にはでき上がっていたものを、これはアカデミー賞を狙えるとみたスタジオによって年末まで公開を遅らせただけだろうから、作っている当人たちにとってはただ地道に仕事をこなしているだけに違いない。


作品は冒頭、ほぼアル中のCIAエージェント、オズがCIAをクビになるところから始まるのだが、ジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット、フランシス・マクドーマンドがフィーチャーされる予告編では一度も目にした覚えのないジョン・マルコヴィッチが、いきなりスクリーンに登場したのでびっくりする。なんだ、彼も出ていたのか。


癇癪持ち、アル中のオズは当然クビになったのを妻には黙っていて、さも自分から職を辞めて自伝執筆に専念するようなことを言うのだが、その妻ケイティを演じているのはティルダ・スウィントンだ。これまたおお、と驚く。昨年の出色のスリラー「フィクサー (Michael Clayton)」で宿敵同士を演じたスウィントンとクルーニーが共演で、しかもここでは二人は浮気を楽しんでいるという間柄だ。昨日の敵は今日の友か。


「バーン・アフター・リーディング」はコメディであり、コーエン作品常連のクルーニー、マクドーマンド、それにバカ面で話題のピットにばかり焦点が当たるので他に誰が出ているのかにあまり注意を払っていなかったのだが、しかしそのおバカ演技のピットが車の中で殴られる予告編で、そのピットを殴ったのこそ誰あろうマルコヴィッチだ。その時のあまりにもピットのバカ面さが印象的なので、彼を殴った相手まで目が届いてなかったのだが、その時にマルコヴィッチの顔もちゃんと出てたっけと思い出そうとするのだが思い出せない。それだけピットの、パンチを受けて面食らった間抜け面が印象的で他の絵が記憶から飛んでいるためだ。その点ではピットの今回のピンポケ演技は成功していると言える。


物語の本当の主人公、というかどたばた騒ぎの中心であるリンダが登場するのは、オズ、ケイティ、ハリー (クルーニー) という副主人公的な面々の紹介が終わってからだ。彼女はジムで教えているトレーナーだが、中年になって腹のたるみが気になり出した。シェイプアップを人に教える者の腹がたるんでいたら話にならない。それに少し胸にも手を入れたい。なんてったって見かけ第一の商売なのだ。それで最近リンダは整形手術を受けることにほとんど偏執的な情熱を燃やしているが、彼女が入っている保険会社はがんとして首を縦に振らない。リンダは自分の職業上整形は必要だと粘るが、まあ普通整形で保険代を払う保険会社の方が少ないだろう。


そういう時、リンダの同僚のチャドは、ジムで誰かが落としたディスクを手に入れる。それは実はケイティが落としたもので、オズとの離婚を有利に運ぶために、オズの言動のいちいちや彼のコンピュータからコピーしたCIA関係のファイルが収められていた。中身を見たリンダらは、これをネタにオズから金をせしめられると画策するが、まったく身に覚えのないもののために恐喝されたと感じたオズは激昂して、待ち合わせの場所に現れたチャドにパンチを食らわせる。


頭に来たリンダとチャドは、今度はその足でアメリカとはライヴァル国になるはずのロシア領事館に足を運び、そこで情報を買ってもらうよう話を持ちかける。しかし冷戦時代ならともかく、現在ではほとんどアメリカと提携している部分も多いロシアとの話はすぐにCIAに伝えられ、リンダとチャドが何者かチェックが入る。一方リンダは、ついに公園の出会いから理想の恋人に巡り会う。その男性ハリーはユーモアのセンスも抜群で、リンダはいっそう整形を受ける必要性を感じるのだった‥‥


むろん登場人物の思惑はそれぞれまったく思い通りに行かず、事態は二転三転、こう来たかと思えばあっと言うひねりやウルトラCの宙返りが挟まり、最後はまったく意外な地点に着地する。こういう話を考え出した作り手に感心するやら呆れるやら、しかし最も感心するのは、演じる者たちがそういうほとんど言語道断な展開にそれぞれなかなかはまっていることにあったりする。特に「12モンキー」では完全に失敗したとしか思えず、これまではヌケた役柄にまったくはまっているとは思えなかったピットがコメディでも使えることを知ったのは驚きだった。わざと始終抜けた顔しているというのもなかなか難しいに違いない。


だいたい話は上記の主要5人を中心に展開するのだが、特に話に強く絡むわけではないのに印象に残るのがリチャード・ジェンキンスで、リンダに同情的なジムの経営者テッドを演じている。昔はどちらかというと冷酷という印象の強い役を演じることが多かったと思うが、 こないだの「ザ・ヴィジター」といい、 最近は角がとれて人情味のある役柄をやるようになった。ここではそういう良心的な人間がまったく因果応報ではない意外な事態に巻き込まれるので、これまたあっと思わせられる。「ヴィジター」といい今回といい、人間のできがよくなるにつれむしろ痛い目に遭うようになっている。なんだかなあ。


コメディだろうがシリアスなドラマだろうが、コーエン兄弟作品はその点で共通点があるというか統一されている。つまり彼らの作品においては因果応報とか正しいことをした者が最終的に得をするようなことがない。「ノーカントリー」では漁夫の利を得ようとした者は結局痛い目に遭うじゃないかとかいう意見もありそうだが、なんの罪もない人間を何人も殺した挙げ句、骨を何本かやっただけで何処へかと消え去る殺し屋は、自分のしたことに対する等価を支払ったかといえば、どうしてもそうは思えない。


「レディ・キラーズ」のように少なくとも悪事を働いていない人間が最終的に利を得ることもないではないが、あれは基本的にリメイクだし、それだって善人が最終的に富を得たというよりも、富を得たのがたまたま悪人じゃない無関係な人間だったというだけで、そこに勧善懲悪や説教くさい含みはない。むしろそれほど悪人というわけでもない人間が次々と消えていくことの方が可哀想だとすら思える。


だから「バーン・アフター・リーディング」でもきっと途中で誰かが死んでしまうか消されてしまう運命にあるんだろうなとは思っていたが、しかしこの作品で死んでしまう二人は、これまでのコーエン兄弟作品で消される運命にあった誰よりも意外だ。最初のやつは、あまりに意外過ぎてあっという声も出なかったし、後のやつは意外性もそうならその理不尽さにやはり声もない。こういうのをしれっと撮れるのがコーエン兄弟の特色であり強みだ。


私はコーエン兄弟作品を見るとよくギリシア悲劇を連想するのだが、「バーン・アフター・リーディング」も実はかなり悲劇くさい。すれすれでコメディの側にいるのは、コーエン兄弟のコメディ系の常連であるクルーニーやマクドーマンド、J. K. シモンズがいるから条件反射でコメディと思い込まされているだけで、実はこれは悲劇だったんじゃないのかという気さえする。それにしても今後はピットもクルーニー同様コーエン兄弟のコメディ路線の常連となるかもしれない。







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