The Ladykillers   レディ・キラーズ  (2004年4月)

一人暮らしの寡婦マーヴァ (イルマ・ホール) の元に、ある日、ドール博士 (トム・ハンクス) と名乗る男が現れ、地下室を借り受けたいと申し入れる。音楽バンドの練習に、音が外に漏れないマーヴァの地下室は最適というのだ。しかしドール博士の本当の狙いは、地下室から近くのカジノまでトンネルを掘り、金庫から稼ぎを盗み出すことにあった。一味の目論見はうまく行き、無事金を奪取したまではよかったが、マーヴァに現場を見られたドールとその一味は、マーヴァをなき者にする決心をする‥‥


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最初この映画を見ようとはまったく思ってなかったのだ。トム・ハンクスがちょっと時代錯誤っぽいインヴァネスを着ているポスターを見ただけでもうパスだと思っていたし、どうもそれがコメディらしいので、ますます見る気がしなくなった。演出にドラマ以上の才能が要求されるコメディで、近年、ファレリー兄弟的下ネタ作品やジム・キャリー作品、その他の一部の作品を除いて面白そうなコメディはそれほどないし、ただ笑うというだけでは、映画よりもTVの方がずっと笑える番組を提供してくれる。というわけで、先週から始まっているこの作品のことは頭からすっかり抜け落ちていた。


それで今週末、どの作品を見るか決心のつかないまま、エンタテインメント関係の雑誌をぱらぱらとめくっていたら、ふと目にした「レディ・キラーズ」の見出しに、「Coen brothers」の2文字を見つけた時はびっくりした。なんだ、コーエン兄弟の作品だったのか。私は別に映画を見る時に、特に前知識をつけてから見るということをほとんどせず、単にその時々に上映している作品の中から見たいものを見ているだけなので、時にこうして、気になる監督が演出していても、気がついた時には既に興行が終わっている時がままある。これが気になる出演者なら、ポスターで顔が出てくるから見逃すということはまずないんだが、監督の名前は特に大きく前面に出てくるわけではないから、注意してないと気がつかないことが往々にしてある。


しかもコーエン兄弟は、つい最近「ディボース・ショウ (Intolerable Cruelty)」が公開されたばかりという印象があるため、こう、すぐ次回作が公開されようとは思ってもいなかった。しかも「ディボース・ショウ」は、いくらコーエン兄弟が作ってジョージ・クルーニーが出ていようと、もう、誰が作って誰が出ていようと、よほどのことがない限りほとんど興味の針が振れることがなくなったラヴ・コメということで、さすがにパスしていた。きっと見たら見たで面白いと思うのではないかと予想するのだが、とにかく腰が重くて足が動かない。


しかし今回は少なくともラヴ・コメではなさそうで、調べてみたら、55年のクラシック・コメディ「マダムと泥棒」のリメイクなのだという。こちらの方も見たことがなかったので、「マダムと泥棒」というタイトルだけは聞いたことがあっても、「The Ladykillers」というオリジナル・タイトルを知らず、そのため非常な有名な作品のリメイクであるということにも気づかなかった。やっぱこういうのってなあ、真面目に情報収集してないと見逃すこともあるんだよなあとは思うが、そうやって思いもがけない時に思いもがけない作品にめぐりあう興奮も捨てがたいので、ちょっとこの悪癖は当分直りそうもない。


なにはともあれそういう次第でいそいそと見に行った「レディ・キラーズ」なのであるが、冒頭のタイトル・シークエンスからして、いかにもコーエン兄弟らしい隅々まで計算された構成で、ごみ収集船が沖合に浮かぶごみ集積所までゆるゆると川を下っていく出だしからして、既にこの船かごみ捨て場がストーリーに絡んできますよ、ゆめゆめお見逃しなきようにという展開を予言しており、ストーリー・テラーとしてのうまさは改めて言うまでもない。「バーバー (The Man Who Wasn't There)」でも、作品が始まった途端、こいつは巧いと思わせてくれたが、コーエン兄弟は、ほとんど本題に入る前からこういうふうに思わせてくれる、数少ない徹底した玄人作家の一人 (二人) だ。


たぶん「マダムと泥棒」は、アレック・ギネスやピーター・セラーズという曲者が出演しているところからして、お洒落なヨーロッパ映画になっていたんだろうと推測するが、今回はそれをアメリカ、しかもそういう洒脱さからは最も縁遠い印象のある南部に舞台を移し替え、「オー・ブラザー」的な南部音楽をまぶしている。元々コーエン兄弟は音楽の使い方の巧さや趣味のよさには定評があるが、今回は準主人公的設定の女主人のマーヴァが黒人の集まる教会でゴスペルに浸っているという設定であるため、用いられる音楽もカントリーではなくゴスペルだ。


元々「オー・ブラザー」の音楽もカントリーというよりは黒っぽい印象が強く、そのため両作品の音楽的印象はかなり似ている。南部を舞台にしても (あるいは「オー・ブラザー」の場合、カントリー音楽をテーマとしていてもと言うべきか)、カントリーというよりはゴスペルとかジャズ、ブルーズの香りが強くなるところが、コーエン兄弟の趣味のよさを反映している。同じように南部を舞台にする作品を撮ると、必ずそういう風にジャズ/ブルーズ系の音楽をつけるクリント・イーストウッドを思い出す。したがってそういう行き届いた配慮が随所に漂う「レディ・キラーズ」も、米南部を舞台にし、出演者は時代錯誤の衣装に身を包んでいたり、ちょびひげをはやしていたり体重過多だったり単にだらしなかったりしていても、作品はやはりそれなりに洒落ものの雰囲気をまとうことになった。


こういう、異なる背景を持つキャラクターが集う作品においては、人集めの段階が、メインとなる作戦にも匹敵するくらい面白いのは周知の事実であり、今回もそれぞれのキャラクターの背景描写にはそれぞれ工夫が懲らしてあって面白い。これで、いったいどういう経過と成り行きでこういう曲者たちが目的を同じくして集うことになったのか、そこまで描き込まれてあったらもっと面白い話になったのは間違いないんだが、しかし、それを入れてしまうと、コメディなのに話が90分で収まらなくなってしまうからな、そこはしょうがない。それでも、どっちかっつうと、「キル・ビル」じゃなく、この作品こそ前後編にして、前半を仲間集め、後半を金庫破りにしてくれたら、間違いなく両方見るのに。


後半、悪党一味が真相に気づいてしまったマーヴァを消すことに決めて、話が「そして誰もいなくなった」に転換していく件りは、コーエン兄弟の持ち味の捻りの利いた美意識とスラップスティックさが見事に同居しており、息もつかせない。その中では特に、ジェネラル (将軍) を演じるツィ・マーの階段落ちが最も印象に残ったが、ともすればやりすぎて悪趣味に陥りがちなこういう展開をしれっと演出できるのが、コーエン兄弟の強みだ。また、ゴスペル音楽に合わせて金庫を破るシークエンスの盛り上げ方、および盗んだ金を持ってカジノから脱出する時の下ネタ的落とし方等、緩急の扱い方も自在で、いつもながらプロフェッショナルというのは彼らのような存在を言うんだよなあという認識を新たにする。


コーエン兄弟の作品は、ハリウッドに与しないインディペンデント的姿勢を崩さない映画作家にしては珍しく、いつも必ず、オチ、というか、これで結局話はこうなりました、みたいな結末がちゃんと用意されている。ハッピー・エンドであろうと、アンハッピー・エンドであろうとそれは変わらない。別に教訓や人生訓、説教をしているわけではないんだが、そのことと、がっちり隅々まで計算された構成、悠揚迫らぬ演出スタイルなどのせいで、最近私はコーエン兄弟作品を見るたびに、ギリシア悲劇を見ているような印象を受ける。というか、実は私は、コーエン兄弟の手になるギリシア悲劇のような作品を見てみたいと思っているわけだ。


私はリメイク作品を見る場合、オリジナルを見てなくても、だからといって別にオリジナルを見たいとは思わない方だが、ちょっとこれは気にかかる。特に後半部分、オリジナルではどういうふうになっているんだろう。最後のオチも同様なのだろうか。結局、次の週末はレンタル・ヴィデオ屋に走ることになりそうだ。






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