A Serious Man


ア・シリアス・マン  (2009年11月)

1967年アメリカ中西部。ユダヤ人のラリー (マイケル・スタールバーグ) には妻とティーンエイジャーの二人の子がおり、ユダヤ人高校の物理教師としてごく真っ当に生きているはずだった。ある時、妻のジュディス (サリ・レニック) が別れたいと言い出す。ラリーの知らない間に浮気しており、その相手はしかもどう見ても虫の好かないサイだった。ラリーの兄アーサー (リチャード・カインド) は無職でラリーの家に同居し、息子と娘は素行に問題があった。さらにラリーは交通事故を起こし、職場では職を失う可能性を仄めかされ、韓国人生徒は落第を取り消してくれと堂々と賄賂を提示してくる。ラリーはラビに会ってアドヴァイスを得ようとするが、それすらもままならないのだった‥‥


___________________________________________________________


なぜ1960年代のユダヤ人社会なのかはよくわからないのだが、コーエン兄弟の新作「ア・シリアス・マン」の主人公ラリー・ゴプニックは、ユダヤ人高校の物理教師だ。だいたいコーエン兄弟製作の映画は、シリアスなクライムものの間にブラックな味わいのコメディが2−3本挟まるという感じなので、昨年「バーン・アフター・リーディング (Burn After Reading)」を見た時も、あともう一本この手の作品か、と思っていたが、その通りになった。


コーエン兄弟の作品だからこういう小品、ひねったコメディもコーエン兄弟ならではの見せ所があり、さすがと思わせてくれるのだが、やはり「ノーカントリー (No Country for Old Man)」のような全編背筋ぞくぞくの傑作を見てしまうと、どうしても次もそんなのを、と期待してしまう。毎回そういう作品を撮るのはさすがに無理だろうから、せめてコメディとシリアスなドラマを交互に、くらいの感じでは撮れないかと思うが、そうはうまく物事は思い通りには運んでくれない。


この手の小品の場合、宣伝も派手に行われず、ややもすると予告編を見る機会もなかったりするので、公開直前まで、いや、公開が始まってもこれがコーエン兄弟の作品だとは知らずに見過ごしてしまいそうになるのも困る。いくらコメディとシリアス系ではシリアスなドラマの方を偏愛しているとはいえ、それでもコーエン兄弟の作品を見逃すつもりなぞ毛頭ないのに、あっと思ったらいつの間にか公開して終わっていたりする。


「バーン・アフター・リーディング」の時は、「ノーカントリー」の次の作品ということでマスコミにもよくとり上げられていたから目にする機会が多かったのだが、その前の「レディ・キラーズ (The Ladykillers)」なんて、ポスターでトム・ハンクスの姿を見ることはあってもコーエン兄弟作品ということを露知らず、もう少しで見逃すところだった。たとえコーエン兄弟でジョージ・クルーニーが主演していても、今では「ディボース・ショウ (Intolerable Cruelty)」のようなスクリュウボール・コメディはさすがに見れないのだが、それでもそれ以外の題材なら見逃す気はない。


とはいうものの、「シリアス・マン」は、またこれがひねったヘンな作品なのだ。だいたい、コーエン兄弟ってユダヤ系だったのか。ユダヤ人が「オー、ブラザー (O Brother, Where Art Thou?)」でホメロスの叙事詩を映像化していたのか。いずれにしても、これまで特にユダヤ人を意識させなかったのに、なぜ今頃60年代のユダヤ人社会を描いたコメディを作らないといけないのか。まったくもって不思議な作品なのだ。別に原作があるわけでもなさそうなのに。


主人公のラリーはユダヤ人で、ユダヤ人学校の物理の教師をしている。難しい歳頃の子供を二人抱え、無職の兄のアーサーが家に転がり込んでいるため、朝は家族で一つしかないバス・ルームの争奪戦になるが、まずまず真っ当な人生を生きている。と本人は思っていたが、どうも最近雲行きが怪しくなり出した。


まず妻の浮気が発覚する。しかもその相手サイはどう見ても自分より性格も見かけも劣る。ラリーより勝るのは押しの強さだけだ。それなのに離婚はもうほとんど成立したものとして、いつの間にやらラリーとアーサーは家を追い出され、モーテル住まいを余儀なくされている。さらにラリーは交通事故を起こしてしまうが、サイも事故を起こし、しかもこちらはぽっくり逝ってしまう。しかしそれを天罰と思う暇すらなく、家庭でも職場でもラリーの災難は降って続く。事態をなんとかするために、ラリーはユダヤ人の聖職者であるラビに会って教えを乞おうとする。しかし、なぜだかそれすらもままならないのだった。


コーエン兄弟作品では、因果応報という言葉は成立しない。それは「ノーカントリー」でも「バーン・アフター・リーディング」でも重々思い知らされているが、ここでもやはりそのことを強力に思い知らされる。コーエン兄弟作品ではしばしば悪人や犯罪者はただ好運なだけで罪を免れて逃げおおせるし、善人がただ運が悪かったというそのことだけで痛い目に遭う。最悪の場合は死んでしまう。しかもそれで何か誰かが得るものがあるかというとまったくそんなことはなく、教訓があるわけでもなく、ただの死に損でしかない。こんな理不尽なことがあっていいものかということが平気で起こる。


昨年見て印象がまだ強く残っているために、そういう運の悪い男というと、どうしても「バーン・アフター・リーディング」のブラッド・ピットとリチャード・ジェンキンスを思い出してしまう。ああいう、強力な運の悪さや、ここでのラリーのような、超強力とは言えないまでも中-小程度の不運が続くことは、どちらがより運が悪いと言えるのだろうか。また、「バーン」でのジョージ・クルーニーは、ジョン・マルコヴィッチは、運がよかったのか悪かったのか、まったく釈然としない。


それにしても、ここに登場してくるラビ (ラバイ) はいったいなんだ。ラビとはユダヤ人の聖職者のことで、ミステリ好きならハリー・ケメルマンの「ラビ」シリーズで知っていると思う。必ずヒゲを生やしているようで、もしかしたら剃っちゃいけないのかもしれない。ニューヨークにはオーソドックス派という特に厳格なユダヤ系の宗派の者が結構いるが、彼らはどんな時でも常にボルサリーノみたいな帽子を被り、男子はもみあげをのばしている。ラビも上の位になればなるほどそういう格好になっていくようだ。


で、ラリーは自分の窮状に対してなんらかのアドヴァイスを得るためにラビに面会を求めるのだが、上位のラビは忙しいとのことで、下っ端のラビしか会ってくれない。そうするとやはりあまり威厳はないしアドヴァイスにも重みはないし、結局事態が改善する兆しはない。それで二人目、三人目と別のラビに面会を求める。もちろん結果は同じだ。それどころか一番偉いラビは忙しいとかいって会おうとしない割りには、垣間見たラビは居眠りしているようにしか見えない。いったいなんなんだおまえらは、と憤りたくもなるだろう。


いったいなんなんだといえば、途中で挟まる歯医者がラリーに話して聞かせる挿話の、念の入った、しかも話になんの貢献もしない、まったく身のない話も、あれはいったいなんなんだ。普通、作家が話を作ると、別に意図していなくても話が繋がったり脈絡があったりするもので、あるいは、でき上がったものが自分でも知らないうちに新しい繋がりや意味をもったりして、ああ、自分はこれがしたかったのかと後で気づいたりする時もあるのだが、「シリアス・マン」に至っては、用意周到にそういう結びつき、脈絡、意図、教訓といったものを排除しようとしているようにしか見えない。要するに、話を追っても得るものは何もないのだ。コーエン兄弟がここで試みていることは、いかに物語を解体しながら物語を語ることができるのかという企てなのではないだろうか。


結局いつまで経ってもラリーの窮状に進展はなく、彼はまったく納得の行かないこの状態に我慢するしかない。家族も友人もラビももしかしたら神も、彼の助けにはならないのだ。ラリーは物理の教師であり、話の中でも、あの確率の話として有名なシュレディンガーのネコの話が出てくる。つまり、確率の上ではすべては起こりうるし、また、起こりえないとも言える。もしかしたらラリーの窮状は明日には解決するのもしれないし、しないかもしれない。そんなのは実はどっちでもいいのだ、なぜなら、それは実際に起きてみるまでわからないし、起こるまでは起こらないのだから心配してみても始まらない、みたいな、諦観、というよりも突き放した、因果と応報をイコールで結ばない視点こそが、「シリアス・マン」の醍醐味と言える。このドライさが、実は癖になるのだ。




(注):

上でコーエン兄弟ってユダヤ人じゃないだろうって言っているのだが、実はユダヤ系だった。実際ミネソタのユダヤ人区域で育ったそうで、つまり「シリアス・マン」はかなり自伝色の濃い作品なのだった。そう言われるとユダヤ人のように見えなくもない。特にジョエルなんて同様にユダヤ系のコメディアン、ハワード・スターンそっくりだ。










< previous                                      HOME

 
inserted by FC2 system