First Cow


ファースト・カウ  (2020年11月)

感謝祭も終わり、案の定、人々は危惧された通りに新型コロナウイルスの感染者の増大でびびっている。為政家としては人々の移動による感染拡大が最も気がかりであるわけだが、その対応の仕方が洋の東西ではまったく違う。 

 

日本ではGoToトラベルをどうするかについて、東京都の小池百合子知事は、国がどうするか決めるべきだと言い、一方、菅義偉首相は、都のことは一番都のことをよく知っている都知事が決めるべきだと言う。要するにどちらも何か問題が大きくなった時の責任をとりたくないという本心が透けて見え、どちらにもがっかりさせられる。 

 

一方でアメリカでは、人々の移動や就業、学校、飲食店の営業について、ドナルド・トランプ大統領、マリオ・クオモNY州知事、ビル・デブラジオNY市長が、オレが決める、お前は口を出すなとばかりに中傷合戦を繰り広げている。要は責任をとりたくない日本の為政者、手柄を一人占めしたいアメリカの為政者のものの考え方の違いがはっきりと現れている。 

 

正直言ってどっちもみっともないと思うのだが、どちらかというと日本の政治家の方が、アメリカの政治家より頼りなく見える。あまり出しゃばる必要もないとは思うが、こんな時こそリーダーシップを発揮してもらいたい。菅も小池もどっちも残念だ。 

 

さて、「ファースト・カウ」だが、この作品、意図的かどうか知らないが、結構不親切だ。冒頭、山の中でイヌを散歩させていた女性 (演じているのはTBSの「サーチ・パーティ (Search Party)」のアリア・ショウカットだ) がイヌが発見したものを見ると、それは人の頭蓋骨だった。それだけならまだしも、その女性は、全容を解明するべく、骸骨の周りを掘り始める。 

 

いったい、どれだけ山の中かは知らないが、普通そこまでする前に警察呼ぶかするでしょ、と思う。イヌが掘り出したものは頭蓋の一部に過ぎず、それなのに女性は、その隣りに埋まっていたもう一人と合わせて二人の人体の骸骨を、一人でほぼ全部、素手で掘り出してしまう。イヌよりすごい。 

 

場面変わって、その山の中を進む一行がいる。実はこの一行は19世紀、アメリカ西部へと移住してきた者たちなのだが、場面転換時になんの説明もないので、最初、こちらは同じ時間軸上の別の者たちの話だと思う。それにしてはこの男たちヘンにむさ苦しく小汚いやつばかりで、食い物はどうやら行き当りばったりで手に入れた植物や動物しかないっぽく、みんな腹を空かせている。私は最初、近くの刑務所から脱走してきた者たちが逃げているのかと思った。これがかなり遡った時代を描いている、まったく異なった時間軸の話と気づいたのはかなり経ってからだ。 

 

そりゃ直前に二体の骸骨が出てくるし、こいつらの誰かがその骸骨になるのは作劇術としてはほとんど当然で、気づけよと言われれば返しようがないが、しかし本当に自然に別の話になっているので、気づかないのだ。賭けてもいいが、原作や前もって大まかな筋を知らなければ、私と同じようなカン違いをする者は多いに違いない。 

 

冒頭登場するショウカットも、後で時代が現代に戻って何らかの幕引きをするかと思えばそんなこともなく、彼女の出番は冒頭、素手で骸骨を掘り出しただけだ。こういう不親切というか見る者に媚びない描写は全篇を通じてあり、見る者は想像力と観察力をフル稼働させなければならない。 

 

それなのにというかだからこそというか、単に夜中のミルク泥棒が、まあ時代が時代だからバレたら殺されかねないというのは実際にありそうではあるが、それでも、こんな悠長にしか登場人物は動いていないのに、なんでこんなに緊張させる。こんななんにもないところでこれだけスリルを醸成できるなら、CGなんか要らないなと思うのだった。 

 

画面は1:1.33のスタンダード・サイズで、本当なら、もしかしたらカラーではなくモノクロで撮りたかったのではと思う。それだと、きっと夜にウシの真っ白いミルクとの対比が効いただろう。それにしても近年、安定さを欠くように見えるスタンダード・サイズをよく見るようになった。こないだも「もう終わりにしよう。(I'm Thinking of Ending Things)」でこのサイズを見たばかりだ。  

 

あるいは、「ファースト・カウ」は、ジェニファー・ケントの「ナイチンゲール (The Nightingale)」も強く想起させる。同様にスタンダード・サイズの画面で、オーストラリアとアメリカという違いはあるが、共に19世紀の山の中の、ほとんどサヴァイヴァルの彷徨が描かれる。共に撮っているのは女性監督でもある。そういや山中サヴァイヴァルというと、デブラ・グラニックの「足跡はかき消して (Leave No Trace)」もあった。 

  

いずれにしても、近年スタンダード・サイズが復権しているのは、私見では、スマートフォンの普及と関係があるという気がする。スマートフォンでヴィデオを撮影する時、結構縦長の画面で撮る者は多い。そのため、縦長画面を気にしない者が多くなった、あるいは、縦長の不安定さを逆に効果的と考える者が多くなった結果が、近年のスタンダード画面の増加という傾向となって現れているのではないか。 

 

などと考えながら関係者等をチェックしていて、実は「ファースト・カウ」演出のケリー・ライカートを、最初、知らないなあと思っていたら、「ミークズ・カットオフ (Meek’s Cutoff)」を演出した彼女だと知った。 

 

こうなると、それまで作品に持っていた印象が、変わったり腑に落ちたりとまた変化する。「ミークズ・カットオフ」も、実に不親切な、それでいて目を離せないロード・ムーヴィだった。「ファースト・カウ」と同じではないか。荒野、草原が山の中となり、女性の代わりに男くささが増しただけと言えなくもない。 

 

そして「ミークズ・カットオフ」も、スタンダード・サイズ作品だった。現在の流行を10年以上前から先取りしていた。ぶれない、とか、芯が一本通っているというのは、こういうことを言うのだな。柔軟性の問題とも言えるかもしれないが。それにしても近年の西部を舞台とした男くさい作品は、ライカートといいグラニックといい、「ザ・ ムスタング (The Mustang)」のロール・ドゥ・クレルモン-トネールといい、「ザ・ライダー (The Rider)」のクロイ・ザオといい、撮っているのは女性ばかりだ。どうやらハードボイルドを肌で知っているのは女性の方らしい。 












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19世紀初頭、アメリカ西部で一旗上げようと山の中を進む者たちの一行に料理人として随行していたクッキー (ジョン・マガロ) は、ひょんなことからロシア人に追われていた中国人のキン-ルー (オライオン・リー) を助ける。一行と別れた後、金をもらって少しゆとりのできたクッキーは、酒場でキン-ルーと再会する。特に行く宛てがあるわけではないクッキーはキン-ルーの誘いに応じ、あばら屋で共同生活を始める。クッキーとキン-ルーはビスケットを作って販売し始めるが、ほとんど粗末な原材料しか手に入らない西部の山奥では、お世辞にもおいしいビスケットとは言えなかった。せめてミルクが手に入ればと考えるクッキーに、キン-ルーは、近くの実力者のファクター (トビー・ジョーンズ) が所有するただ一頭の乳牛から、夜中にミルクを絞り盗むことを提案する。ミルクが加わったことで格段に美味しくなったクッキーのビスケットは瞬く間に評判になり、列を成して買い求める一行の中には、ファクターの姿もあった‥‥ 


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