1963年ワイオミング。エニス (ヒース・レッジャー) とジャック (ジェイク・ジレンホール) の二人は、山の中で羊たちを見張る仕事で一緒になる。長期間、話し相手がお互いしかいないという条件下で、二人の関係はどんどん親密になり、ある時、ついに一線を越えてしまう。しかし当時の風潮ではゲイは忌み嫌われるものであり、しかもエニスには下界に帰ると結婚が決まっているアルマ (ミシェル・ウィリアムス) という相手がいた‥‥


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それにしても昨年末からの「ブロークバック・マウンテン」旋風は凄まじい。公開が始まったその時点で、既に発表が終わっている各種の映画賞の作品賞をほとんど総嘗めにし、それまでオスカーだとか何だどか騒がれていたその他の作品をまったく霞ませてしまった。とにかく猫も杓子も「ブロークバック」という具合で、この作品の噂を耳にしない日はないし、夜のトーク・ショウではこの作品をネタにしたギャグを聞かない日はない。


もちろんこの話題沸騰の理由が、ゲイのカウボーイ同士の恋愛を描いたというそのテーマにあることは言うまでもない。いくら近年ゲイが市民権を獲得してきているとはいえ、脇役や笑いをとるためではなく、正面きってゲイを描いた作品がどれだけあるかといえば、まだそれは心もとないという程度でしかなかった。少なくとも全米公開される作品で、ゲイが主人公でゲイの恋愛にのみ焦点を絞って描いたシリアスな作品というものは、これまでになかったと言ってもいい。さらに印象としては、ジョン・フォードの諸作品を見るまでもなくマッチョ以外の何ものでもないカウボーイが、よりにもよってゲイというこの設定、これは耳目を集めるのも当然だ。


それだけ話題になっている作品だというのに、私が住んでいるクイーンズでは、一館のみの単館公開だ。マンハッタンほどではないにしろ、クイーンズだって人口200万以上を数える立派な中型都市だ。その200万人以上を相手に、200人も入らない単館劇場でしか公開されていない。どうやって公開を待ち構えている映画ファンをさばくつもりなのか。


というわけで、私は牛詰めの劇場で前後左右の人間に煩わらされながら作品を見るくらいなら待った方がいいという気持ちが強かったので、これは絶対ロング・ランになるだろうし、見に行くのは年明けだなと思っていた。そしたら、私以上にこの作品に乗り気になっている女房がせっつくせっつく。ウッディ・アレンの新作だと歯牙にもかけなかったくせに、アン・リーだよ、ボーイズ・ラヴだよと、「ブロークバック・マウンテン」にかける意気込みが生半可じゃない。


いや、わかってはいるけどさ、まだ混んでんだよ、もうちょっと空いてから、と言っているのに、本当はゲイ・ムーヴィだから見たくないんでしょ、と疑惑の目でこちらを見る。ま、確かにゲイ・ムーヴィという題材に特に惹かれるわけじゃないのは確かではある。女房が感激してこれ読め、読めと言っていた高村薫の「李歐」だってまだ読んでないし、昔、他の女の子が貸してくれた竹宮恵子の「風と木の詩」も、数か月も手元に置いたまま、結局1ページも読まないまま返してしまったこともある。確かに、ゲイものが特に私にアピールするわけじゃないというのは認めよう。しかし、リーの実質上のデビュー作だったゲイ・テーマの「ウェディング・バンケット」はちゃんと一緒に公開時に見に行っているわけだし、今回も別に見ないわけじゃないと言っているのに、なんでこうも疑惑の目で見られないといけない。


だが、それにしてもなんで女ってこうもゲイものに弱いのか。こういうのは小説やマンガだから想像力を煽る禁断の愛になっていいのであって、それそのものをずばりと見せる映画という媒体は別物だ。実際、たぶん性器まで見せるわけじゃないだろうが、ごつい男同士のグラフィックなセックス・シーンが話題となっているのを、それを日本のゲイものを見る感覚でこの作品を見たらかなり強烈だぞと警告しているのに、女房の興奮は日に日に増しこそすれ、いっこうに沈潜化する気配がない。すごい入れ込みようだ。


そしてようやっと今週からクイーンズでも一応は3館での気持ち拡大公開になり、しかも当初の騒ぎも一段落して多少は空いたろうということで、やっとこちらも重い腰を上げて見に行こうという気になる。しかし、劇場に着いてみると、既に公開後一と月以上経ち、今週から少なくともこれまでの3倍の劇場で公開されているのに、まだ場内は8割以上の入りだ。ほら見ろ、先週見にきてたら絶対満員で見れなかったぞ。


実はこれだけ話題になっている作品だと、事前になんらかの前情報を得ることなく、虚心坦懐に作品を見るということは非常に難しい。勝手に向こうから情報が飛び込んでくるのだ。特にこうやって公開後も待っていたりするとなおさらだ。おかげでもうかなりの部分、内容は事前に知っていたわけだが、それでもリーのこの手の作品の場合、ポイントはストーリーではなくその描写にあるので、ほとんど最初から最後までストーリー展開を知って見ていても、まったく見ることの妨げにはならない。演出家としてのリーの力を物語るものと言えよう。


事前に私が小耳に挟んだものの一つに、最初の30分はほとんど話が動かなく、実際に主人公が踏み込んだ関係になって話が流れ出すまでは退屈だ、というものがあった。見てみればわかるのだが、最初はまるで赤の他人でしかなかったエニスとジャックが、お互いに心を開いていく過程を緻密に綴ったその最初の30分があればこそ、後半の展開が生きてくる。そこのところをとらえて紡ぎ上げていくリーの繊細な演出は、はっきり言って見事としか言いようがなく、この部分を退屈と思う者が、たぶんその時代にゲイに石を投げてリンチにかけていたような奴らなんだろう。


実際、どちらかと言うと寡黙なエニスは、冒頭で初対面のジャックと二人顔を突き合わせながらも、雇い主が現れるまでお互いに言葉を交わすことはない。そのうちにジャックは車のサイド・ミラーを使って髭まで剃り始める。つまり、この二人は誰もいないところでお互いに顔を突き合わせていながら、少なくとも30分は両者とも一言も発しない。本当に、まったく赤の他人なのだ。二人が言葉を交わすのは、雇い主のジョー (ランディ・クエイド) が現れ、二人とも働くことが決まってジャックがエニスに握手を求める、その時が初めてなのだ。その二人が気持ちを通い合わせていく過程が、できるだけ言葉を排し、羊を追うという行動の描写のうちに、観客が納得するよう、細心の配慮をもって紡がれていく。その職人芸に思わず溜め息。


当然アカデミー賞でも主演男優賞に推されるのは間違いない、エニスを演じるヒース・レッジャーをはじめとして、演技陣も申し分ない。レッジャーはオーストラリア人でありながら、いかにも中西部のアメリカ人然とした無骨な男が奇妙にはまる。「チョコレート (Monster's Ball)」でもそうだった。実は現在、イメージの中にだけ存在するようないかにもアメリカアメリカした真っ当なアメリカ人は、「シンデレラマン」のラッセル・クロウ、「パトリオット」(レッジャーも出ていた!) のメル・ギブソン等の、オーストラリア人俳優によってよく演じられる。そういえば「堕ちた弁護士 (The Guardian)」のサイモン・ベイカー (彼はリーの「楽園をください (Ride with the Devil)」にも出ている) もオーストラリア出身だった。ギブソンを除き、彼らに地で喋らせるとかなりオーストラリア訛り丸出しの英語になるのにもかかわらずである。どうやら今のオーストラリアの何かが、我々がイメージしているアメリカというものを触発するようだ。


これが男優だけじゃなく女優にも言えるのは、ニコール・キッドマン、ナオミ・ワッツ、ケイト・ブランシェットをはじめとする、ハリウッドを代表するオーストラリア人女優を見てもわかる通りだ。キング・コングと共にアメリカの象徴エンパイア・ステイト・ビルに上る女性は、実はアメリカ人じゃないのだ。しかしそういうことよりも最大のポイントは、やはり、このアメリカ映画を台湾生まれのアン・リーが撮った、しかもそれを佳作に仕立て上げたことにあると言えよう。「SAYURI (Memoirs of a Geisha)」で日本人以外の女優を使ってアメリカ人監督がいかにも日本的な内容の作品を撮ったように、ここではオーストラリア人俳優を起用して、台湾人監督がアメリカ人の心の内奥にメスを入れる。ハリウッドの懐の深さを誉めるべきか。


レッジャーをはじめ、主演共演俳優はどこでもかなり誉められているのだが、その中で、最後に出てくるジャックの両親を演じた二人、特に母を演じたロバータ・マックスウェルに言及する媒体があまりないのは不満だ。彼女のこのシーンだけでも何かの賞の助演女優賞にノミネートされるくらいはあってもいいのにと思えるオーラを発散させていた。一方、誉めてばかりいるのもなんなので一つだけ気になったところを言うと、歳をとったジレンホールの姿形は、若造がつけ髭をつけたようでいま一つ。一方のレッジャーがちゃんと歳を重ねているように見えるのでなおさらだ。ただし女房の意見ではジレンホールはかなりゲイ受けのする容姿をしているということで、わざとその辺を狙っているということはあるかもしれない。


作品が終わって劇場を出ようとすると、当然のことながらゲイのカップルもちらほらと見にきていた。普通、アメリカ人は本編が終わってエンド・クレジットが流れ始めると、それは見ずに席を立ってしまうものだが、今回に限っては、どのゲイ・カップルも普段なら見ないはずのクレジット・ロールを食い入るように見つめていた。やはり思うところがあったのだろう。


結局うちの女房は、私が思ったようにかなりリアリスティックな男同士のセックス・シーンに衝撃を受けていたが、それでもいかにも繊細で胸を打つ全体のできは、予想通りとかなり満足していた。うちに帰ってからも復習に余念がなく、あのHシーンは9回も撮り直したんだってよ、レッジャーはでもこのHシーンより、(現実の妻でもある) ウィリアムスとのHシーンの方がやりにくかったんだって、ジレンホールは5年前にもこの役のオファーを受けてたんだって、リーは (前回の「ハルク」が失敗しているために) この作品が自分のヒーリング・プロセスの一環でもあったんだって、と、新しい情報を得る度に私に報告しにくる。おかげでこの作品に関しては、私もかなりゴシップ的情報が身についてしまった。


先日、今年のゴールデン・グローブ賞の中継を見ていたら、主演男優賞を除き (「カポーティ」のシーモア・ホフマンに持っていかれたのはしょうがあるまい)、予想通り「ブロークバック・マウンテン」がほとんどの主要な賞を総嘗めにしていた。作品の紹介をしたのが、出演者の一人であるランディ・クエイドの弟であるデニス・クエイドだったのは思わずにやりとさせられたし、そのクエイドが、「デイ・アフター・トゥモロー」でジレンホールと親子役をしているという繋がりもある。


しかし何よりも印象的だったのは、監督賞を受賞したリーが、昨年「ミリオン・ダラー・ベイビー」で同賞を受賞したクリント・イーストウッドからトロフィを授与されたシーンに尽きる。リー本人が感激して、「イーストウッドからこの賞を貰うというのは畏れ多い (too much)」と述べていたように、現在、アメリカどころか世界を代表する映画監督の一人であり、俳優としてもアメリカを体現する一人であるイーストウッドが、ゲイ・ムーヴィを撮った台湾人のリーにトロフィを手渡すシーンはほとんど感動的であり、衝撃的ですらあったと言える。時代が変わったという瞬間を目の当たりにしたような気すらした。こうなったらアカデミー賞でももう一度リーがイーストウッドから、今度はオスカー像を受けとる姿を見てみたい。







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Brokeback Mountain   ブロークバック・マウンテン    (2006年1月)

 
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