Million Dollar Baby   ミリオン・ダラー・ベイビー  (2005年1月)

ボクシング・トレイナーのフランク (クリント・イーストウッド) の実力を見込んで、女性ボクサーのマギー (ヒラリー・スワンク) がジムに押しかけてくる。既に30を超えているマギーだったが、根性もパンチ力もある彼女に必要なのは、的確に助言できるトレイナーの存在だったのだ。女性を教えるつもりなぞないフランクだったが、マギーの熱意に根負けし、アドヴァイスには必ず従うことを条件にコーチを引き受ける。フランクの指導の元、マギーは着実にランキングを上げていくが‥‥


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「ミリオン・ダラー・ベイビー」は昨年末に公開され、当然私はイーストウッド監督作品だから見に行くつもりでいた。評がよかろうが悪かろうがまるで気にしていなかった。そしたらこの映画の評判の上がり方がものすごい。いつの間にやら猫も杓子も「ミリオン・ダラー・ベイビー」という感じになってしまって、こないだのゴールデン・グローブでは主要な賞を「アビエイター」と分け合った。


もちろん長年のイーストウッド映画のファンとしては悪い気がしない。一昨年見た「ミスティック・リバー」の後味が悪かったために、ちょっと、もうイーストウッドの映画はもういいかもしれないと言っていたうちの女房までが、こんなに評判になるんならやっぱり見ようかなと言い始めた。おお、来なさい来なさい。


今、自分で主演して演出し、成功している映画人というと、イーストウッドが筆頭であろう。まあ、イーストウッドは、とはいえ既にもうかなり歳だから、アクションばりばりで愛も恋もこなすというわけにはいかないし、「ミスティック・リバー」のように演出に専念する場合もあるが、今度は最近の作品には音楽も自分でつけるようになっており、現在ではイーストウッドの多方面における才能を疑う者は一人もいない。


とはいえ役者としてのイーストウッドは、西部劇上がりということもあり、どうしても演技力が評価されるというわけにはいかなかった。ちょっと口の端を持ち上げて一言なんか印象的なセリフを吐く、というところがアクション・スターとしてのイーストウッドの持ち味であったわけで、西部劇にせよ「ダーティ・ハリー」シリーズにせよ、人々は演技派としてのイーストウッドを期待など全然していなかったし、考えてもいなかった。


それが変わり始めたのは、むろん「許されざるもの」からである。枯れてアクションができなくなってきたイーストウッドは、そのまま役者として消えていくわけではなく、昔動けていた役者が動けなくなったという地点で、初めてその演技力を示し始めた。これは元々イーストウッドが、あんまり素早く動けないくせにアクション・スターとして確立してしまった稀有の役者だったことと関係あるかもしれない。西部劇でも「ダーティ・ハリー」でも、イーストウッドが最も印象に残っているのは、彼が歩いている時、立ち止まっている時、そして走ることができないのに走らされている時で、アクションができないのにアクション・スターであるということが、倒錯的なイーストウッドの最大の魅力であった。


そして本当にアクションをする必要がなくなった今、イーストウッドの演技が誉められ始めた。もしかしたら、これは考えたら当然のことなのかもしれない。彼は元々アクション自体で人気のあった役者でなどなかったのだから。今でもどうしても、あの、口の端を持ち上げてぴくぴくさせてしまうという癖は健在だが、それはご愛嬌というものだろう。


とはいえ「ミリオン・ダラー・ベイビー」ではイーストウッドが主演とはいっても、本当の主人公はヒラリー・スワンク演じるマギーである。今では老境にさしかかった手だれのボクシング・トレイナーが、マギーという、こちらも既に体力の曲がり角にさしかかっているが、このままでは終わりたくない、最後に一花咲かせたいと思っている女子ボクサーに懇願され、最初は嫌々ながら、あとはまるで自分のことのように、マギーに助言を与え、そしてチャンピオンへの階段を一歩一歩登っていく。


何がうまいって、こういう使い古された設定を飽きることなく見させる演出がもう絶品である。各々のシーンが、こういうふうに撮るしかないと思えるカメラと演出で淡々と紡がれていく。リズム、アングル、カメラ・ワーク、こういうのを演出というんだろうなあという的確さで繋いでいく様は、見事というしかない。惚れ惚れしてしまう。イーストウッドの頭の中では、どこをどう撮ればどういうふうに見えるということが頭の中できちんと計算されているんだろう。ヘンな話だが、イーストウッド映画を頭の中で思い返して一番印象が似ているのは、ヒッチコック映画である。彼らは何をどう撮ればいいということが最初からわかっている。彼らの映画は演出の映画なのだ。イーストウッドの場合、さらにただの演出の映画ではなく、エモーションもまたきちりと押さえているところが他と一線を画している。


そして「ミリオン・ダラー・ベイビー」は、「ロッキー」のようなボクシング映画として後世に名を残すんだろうなあと思っていた矢先、映画は思わぬ展開を迎える。



(注): ここから先は思いきりネタばれになりますので、作品を最初に見る時の衝撃を大事にしたい方は読まないように。


マギーはタイトル・マッチでチャンピオンをマットに沈めた直後、ダーティ・プレイで知られるチャンピオンの後ろからの一撃をくらい、倒れた先の椅子で頭を強打、昏倒する。眠りから覚めたマギーは、下肢を動かすことができない身体となっていた。寝返りすら打つことのできないマギーの下半身は床ずれができ、両足は壊死を起こして切りとらざるを得なくなる。既に頂点を極め、思い残すことなぞ何もないマギーは、フランクに救命装置を止めてくれることを要求する‥‥


まさかこういう展開になるなぞまったく思いもよらなかった。「ミリオン・ダラー・ベイビー」は、安楽死、尊厳死を描く映画だったのだ。信心深いフランクは当然マギーの要求を拒否 (ここで毎日教会に通うという前半のフランクの描写が生きてくる)、しかし頼りになるはずのマギーの家族は、マギーが死んだ時の保険の受け取りの方ばかりが気になるような奴らばかりだった。マギーを死なせてやるべきか、そういう状態でもとにかく生き永らえさせるべきか、フランクは苦悩する。


そしてそういう展開になってもイーストウッドの演出は冴え渡る。というか、前半、パンチ力はあっても冴えないボクサーでしかなかったマギーが、身体を作り、筋力がつき、動きがシャープになり、実力がついてくることがちゃんと丁寧に描き込まれているからこそ、後半との落差が大きく、よりドラマティックになる。ここで死んでも構わないと思うマギーに観客がどれだけ感情移入できるかが作品の成否の分かれ目だが、その点、まったく作品は揺るがない。そして手足が動かないために、マギーは自分に残された唯一の自死の手段である舌を噛み切るという挙に出るのだが、発見が早く、一命を取り止める。それにしても、口から血をだらだらと流しながらも、自分で自分の人生を決めるというその様を美しいと感じさせるスワンクは、実にいい仕事をしている。それとも、やはりイーストウッドの演出こそを誉めるべきか。


作品の本当のテーマは重いわけだが、同様に重いテーマであった前回の「ミスティック・リバー」に較べ、「ミリオン・ダラー・ベイビー」は、見た後の印象は「ミスティック・リバー」ほど暗くない。これはまずなによりも、たとえどのような最期になろうとも、運命に翻弄されるのを潔しとせず自分で自分の運命を決めるというマギーの前向きの意志の強さが一つと、ボクサーの一人デインジャー (演じるはFOXの「アンデクレアード (Undeclared)」やCBSの「ザ・ストーンズ (The Stones)」等の短命に終わったシットコムに主演していたジェイ・バルケル) のような、未来を感じさせるエピソードがちゃんと挟み込まれているためだろう。そして狂言回しに徹するモーガン・フリーマンのいつもながらの抑えた玄人演技も見事。こういった細部にも視線の行き届いた「ミリオンダラー・ベイビー」は、イーストウッドの作品としてだけでなく、近年製作されたすべての映画の中でも収穫と言える一本になった。






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