Cinderella Man   シンデレラマン  (2005年6月)

ジム (ラッセル・クロウ) は美しい妻メイ (ルネ・ゼルウェガー) や子供たちに囲まれ、ボクサーとして順調なキャリアを積んでいたが、ある敗戦を機に坂道を転げ落ちるように転落する。ちょうど時は大恐慌時代であり、いったん途切れたキャリアを復活させるのは難しく、他の職にもあぶれたジムと家族はほとんどその日暮らしで、毎日の食費やガス代電気代にも事欠く有り様だった。そんな時、プロモーターのジョー (ポール・ジアマッティ) が、試合の話を持ち込んでくる。ジムはその試合に勝利するが、次は時のチャンピオン、マックス・ベアーであり、誰が見てもジムの劣勢は明らかだった‥‥


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別に意図していたわけではないが、先週のアメリカン・フットボール映画の「ロンゲスト・ヤード」に続いて、今回はボクシング映画の「シンデレラマン」と、2週続いてスポーツ映画を見ることになってしまった。前者はコメディであり、今回はシリアス・ドラマと手触りはまったく異なるのだが、偶然にせよ見る映画が連続してスポーツを題材にするものになった。


実はスポーツが主題の映画というものは、印象に残る作品が結構あるわりにはそれほど数は多くはない。そもそもスポーツ映画というジャンルが実際に存在するかどうかすら疑わしい。実際、スポーツそれ自体が面白いものである時、わざわざそれによけいなストーリーを捏造してくっつけて製作することに意味があるのかと思ってしまう。私はよくPGAゴルフやF1を見るが、必要最小限のバック・ストーリー以外は邪魔に感じる方で、通常は優勝インタヴュウすら見ない。私が見たいのは、アスリートの高度な技術、スポーツが持っている一瞬のエキサイトメント、あっと驚く瞬間であって、それは優勝インタヴュウにはないからだ。


無論スポーツをよく理解するためにその背景を知りたいと思ったり、ひいきのプレイヤーの私生活に興味を持ったりするのはわからないではない。そういうのをうまく利用してドラマとして提供するのがスポーツ映画なんだろうと思っている。つまり、スポーツがスポーツそのものではなく、なんらかの作品として存在するからには、それが人生やなんらかの比喩として用いられなければならず、要するに、スポーツ映画は、通常、スポーツを描きながら、言いたいことは別にある。また、そのためには社会がスポーツを文化として認めていることが必須だ。単にスポーツそのものを撮るだけではスポーツ映画は成立しない。


そのスポーツ映画において、特にボクシングは題材に起用される頻度が高い。時に生き死にの問題になるボクシングは、演出によってはこの上なくドラマティックになることは当然だ。プロレスがスポーツそれ自体があまりにも演出の手が入りすぎて逆に映画のような作品にはなりにくいのとは逆に、ボクシングはいまだに殴り合いが持つ根源的なエキサイトメントを含有しており、その点が演出家を惹きつけるのだろう。実は最も野蛮な殴り合い映画を撮れる社会は、最も高度な文化を持つ社会だと言える。


さて「シンデレラマン」だが、さすが手だれのロン・ハワード演出なだけあって、最後まで結構面白く見せるのだが、実はこれ、あとから考えるとかなり、本当かよ、と思えるシーンが随所にある。実話を元にしているというから、本当にあったことを少しばかり誇張しているだけなのかもしれないが、それにしても後から思い返すとヘン、というシーンがかなりある。


まず、第一に、最初は飛ぶ鳥を落とす勢いであったジムが、たった一度負け、その時がちょうど大恐慌時代と重なったというだけで、いきなりあそこまで極貧の生活に落ちぶれるものだろうか。映画はジムを真面目で家族を愛するコツコツ型の人間として描いているだけに、よけい違和感が残る。ああいう人間がいざという時のための蓄えも準備していないことがあるだろうか。結構豪邸に住んでおり、宝石等の装飾品もいっぱい持っていた。それらを売れば、少なくとも数年は食っていけたはず。それがなんでいきなりあそこまで貧乏になる?


その上、身体は頑健でどんな職でもかまわないと思っている実直なジムが、いつまでも職にあぶれているのもなんかしっくり来ない。いくら大恐慌時代といえども、心身健康で働き盛りで、かつてはそれなりの名声も人気もあり、家族を養うためならどんな職でもかまわないと思っている男が、大都会でどんな伝手を頼っても本当になんの働き口も見つけられないという状況があるのだろうか。それとも大恐慌時代というのはそういうものだったのだろうか。しかし、それにしてはマンハッタンを歩いている道行く人はそれなりにお洒落をして身なりも綺麗で、なぜジムと彼の仲間だけが職にあぶれているのか、その本当の理由を推し量るのはなかなか難しい。


また、電気も止められ二進も三進も行かなくなったジムが、なけなしの金を使ってマンハッタンのボクシングのプロモーターが集うサロンのようなところを訪れ、金を無心するという場面があるのだが、金持ち揃いでスーツをびしっと着こなしている面々が、ジムの懇願についほだされて‥‥小銭を恵むという、これまた非常に理解に苦しむシーンがある。いくら現在と70年前では貨幣の価値が違うとはいえ、どう見ても金持ち面した面々が、恥を忍んで金を乞いに来ているのに、小銭、よくて1ドル札しか手渡さないというこの吝嗇ぶり、そして最後の頼みの綱のジョーまでもが、親切面して、で、いくら足りないんだ、うん、1ドルいくら? なんて、たった1ドルちょっとしか渡さない。


その1ドルの価値が今ではその100倍の価値があったとしても、それでも100ドルにしかならない。彼らにとってはこれくらい大した額ではなかろうに、それなのにこのケチくささはなんだ。まあ、実はジョーは金持ちに見えても実は生活は逼塞していたようだからそれはまだわかるとしても、全体としてのこういった金持ちと貧乏のバランスが、この作品ではかなり破綻しているように見える。いったい誰が本当の金持ちで、誰が貧乏で、庶民としての我々観客は、いったい誰に肩入れすればいいのかわからなくなってしまうのだ。


で、結局、そういう違和感を私も、私の女房も受けたのだが、女房いわく、「シンデレラマン」は、「一杯のかけそば」なんだという。要するに、あれも最初確か、泣ける実話ということで話は広まったはずだが、実はかなり嘘くさい、眉唾ものの話だった。「一杯のかけそば」では、そばを親子3人だかで分け合うというものだったが、よく考えると、そばを買う金があるなら、そば粉を買ってうちで打てば、ゆうに3人分くらいはできるはず、という当然の意見があった。それで結局、この話は最終的には作り話だったということで片が付いたはずだ。つまり、「シンデレラマン」も、そういう、事実を大量に脚色しすぎたためにあちこちにほころびが出てしまった、と、まあ、そういうことだ。実際、これはかなり頷ける意見ではある。


でも、そうやって、見た後にかなり「シンデレラマン」に対して辛辣な意見を吐くわりには、「あんた、でも、最後には結構ぼろぼろ泣いてたじゃない」と言うと、「だから口惜しいんじゃないの。私の涙返して」とのたまった。結局、そういうふうに見た者に思わせてしまうところが、今一つ作品が成功しているとは言い難い点なのだが、しかし、それでも、見ている間は結構乗せられてしまうのは事実である。その辺が話巧者のハワードのうまさであり、クロウやゼルウェガー、ジアマッティらの巧みなところである。しかし、それでも、思い返すとなんかしっくり来ないところがまだ結構あったよなあ‥‥






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