The Class (Entre les murs)


パリ20区、僕たちのクラス  (ザ・クラス)  (2009年3月)

パリの高校で様々な国から集まった多様な人種の生徒にフランス語を教えるマリンには、片時も気の休まる暇がなかった。始業のベルが鳴っても教室はがやがやとと落ち着かず、あっという間に時は経ち、今日もまた貴重な時間がムダになる。既にヴェテラン教師の部類に入るマリンだったが、それでも時にはぷっつん来て怒鳴ったり思わず手が出そうになってしまう。ある時男子生徒の一人の不用意な行動が女生徒に怪我を負わせてしまう。暴力は御法度の学校ルールにおいては、それが故意であろうと事故であろうとそれなりの対処をしなければならなかった‥‥


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「ザ・クラス」は昨年のカンヌのパルム・ドール受賞作で、今年のアカデミー賞の外国語映画賞にもノミネートされている。とはいえ毎年特に注意を払っているわけではないカンヌで勝っていたとは知らず、今年のアカデミー賞に「おくりびと」がノミネートされ話題となっていたので、ついでにではその他の国の作品はと調べてみて初めてそのタイトルを知ったに過ぎない。


さらに予告編を見ているわけではない小品、特に外国語映画の場合、実はそれだけだと見ようと決心するにはまだ弱い。近くではやっていない場合はなおさらだ。そこまで車を駆ってでも見たいと思わせる何かがなくては、重い腰を上げる気にはならない。「クラス」の場合はどうしようかなとは思っていたのだが、本気で見ようと思ったのは、近く (とも言えないが) の劇場で既に2か月以上上映が続くロング・ランになっていたからだ。批評家評を別にして特にある映画を見た人間の口コミが近くにない場合、人足の落ちないロング・ランという事実ほど雄弁な評価はない。


「クラス」はパリの様々な人種の集う高校のとあるクラスを描く作品だ。アメリカでいうと、英語を母国語としない者たちを対象とするESL (English as Second  Language) のクラスがこういう感じである。ほとんどドキュメンタリーかと見紛うような肌触りで、手持ちカメラ、ほとんどクローズ・アップに近い対照に寄ったカメラなどから受ける印象は、ダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」だ。「ある子供」ではない、あくまでも「ロゼッタ」であるところがポイントだ。要するに、印象としてはとにかくカメラが対象に近い。劇場の前の方に座っていたら、かなりの確率で人のアップに酔いそうだ。私は何度も心の中で頼むからもっと引いて撮ってくれと頼んでいた。


例えばこの作品は文字通り高校のクラスを撮るものだ。当然クラスの中には何人もの生徒がいる。だいたい2、30人くらいだろうか。しかしカメラはほとんどそのクラスを広角で収めないのだ。常に数人くらいずつと、そのクラスを教える教師を交互にしか撮らない。そのため、最初は生徒がいったい何人くらいいるかも、教室の大きさすらほとんどわからない。これはかなりの閉塞感だ。カメラはほとんど学校の外には出ないので、フランス語をしゃべっていなければ、これがいったいどこの国のどこの都市なのかもわからない。


登場する生徒も、授業の中で自分たちの境遇や将来の展望を発表したり、あるいは父兄面談のようなもの以外からは、ほとんどその背景は説明されない。これは教師のマリンにも言える。彼がいったいどのような考えで教師という職に就いているかはほとんど言及されることはない。カメラはだいたい常に、いつも何か問題が起こり、その対応に追われる教師、反応する生徒たちの現在のみをとらえるだけだ。彼らの将来の展望を気にしないというよりは、それを考えている余裕がないというのが最も近い。今を生きるので精一杯なのだ。これはやっぱり「ロゼッタ」だ。この閉塞感はヨーロッパならではか。


この作品にとらえられているのと同じ状況は世界中の大都市で同様にあるだろう。アメリカでもあるのは当然だ。というか、アメリカでこそ最もその手の問題が山積みになっているのは間違いない。しかし、同じ設定でニューヨークやLAで撮っても、同様の肌触りを受ける作品にはなるまいと思う。


その一番の理由としては、アメリカで問題を起こす人間がいる場合、ほぼ十中八九、銃を発砲して死傷者が出、社会的ニューズとなるために、その手のドメスティックな問題が学校内部に留まらず、外部をも含めた問題として拡散して行ってしまうからだと思う。それはそれで不幸なことではあるが、しかしその問題のはけ口や解決が見つからず、いつまでも問題が内部で発酵し続けて行くことも不幸であることもまた間違いない。


ヨーロッパの学校でアメリカのコロンバインのような問題が起こらないのは (最近ドイツでついにアメリカ型のそのような事件があったが)、まず簡単に銃が手に入らないこと、そして学校という人生のごく限られた一部の時間に起こる出来事であるために、問題がこれ以上持ちこたえられない発火点に到達する前に、主人公である生徒たちが卒業したり落ちこぼれたりして学校という場からいなくなってしまうからだという気がする。問題を先送りしながらかろうじて持ちこたえているに過ぎないのだ。


逆に言えば、だからこそ「クラス」に描かれている状況はよけいに逼迫感を煽る。いつ発火するかわからない濃縮ガスを充満させつつ、そこここでガス抜きをして一時を凌ぎ、また明日を迎える。だいたいこの時期の少年少女というものは、将来に対する期待と不安が交錯して最も輝きかつ最も不安定なものだが、しかし、この作品を見ていると、自分がいかに仕合わせな高校時代を送ったかが実感として思い出される。登場人物には悪いが、自分がこういう立場じゃなくてよかった。


これが日本の場合だと、まだ少なくともクラスメイトは同じ場所で生まれ、同じ言葉を話し、同じ場所で育ち、ある程度の価値観を共有しているという暗黙の了解がある。東京放送の「三年B組金八先生」が日本中でヒットしたのは、とりもなおさずそこで描かれていることが日本中で同様の意識で了解され、共感を得たからに他ならない。しかし「クラス」では、たとえばアムネスティによって母国を離れてフランスに来たために、まず言語の習得から始めなければならないという者も多い。自分の持っている常識が相手にも通じるとは限らない。 彼らにとって唯一の共同の話題は文学や社会情勢よりも、まずサッカーなのだ。


実際、火種を抱えたまま教師と生徒たちが一時の休息に興じるのは、サッカーを通じてだ。ここでは言葉の壁は存在しない。ワールド・カップのような世界レヴェルまで大きくなってしまうと、スポーツがまた国際問題の火種になってしまうのだが、コミュニケーションを図る最も直截で効率的な手段は、身体を動かすスポーツであるというのは洋の東西を問わない。こうやって一時的なガス抜きをして彼らはまた明日を迎えるのだが、しかし、本当に、教える側であろうと教えられる側であろうと、自分がこういう立場にいなくて本当によかったと思ってしまう。


「クラス」の演出は「南へ向かう女たち (Heading South)」のローラン・カンテだ。それなりにリアリスティックなタッチがどの作品にも共通しているダルデンヌ兄弟とは異なり、「南へ向かう女たち」と「クラス」ではかなりタッチが異なり、見ただけではこれが同じ人間が演出している作品だとは気づかないだろう。私も「クラス」という作品のことだけを聞き及んでいて、誰の演出かということまでは気が回らなかったために、見終わって家に帰ってきてから調べるまでは、これがカンテ作品だということにはまったく気づかなかった。無理に共通点を探すと、多人種間における摩擦が両作品において描かれているということくらいか。


パリで人種間の軋轢を描くとなると、今真っ先に思い浮かぶのは「隠された記憶」のミハエル・ハネケで、特に意図したものではないだろうが、「パリ、ジュテーム」にもそれらしきものはあった。実は最近のパリを舞台にした作品には、「テイクン」にせよ昨年の「テル・ノー・ワン」にせよ、人種的なものが絡む場合が多い。しかもよく見ると、作り手や原作や主要登場人物はフランス人じゃなかったりする。それを考えると、もしかしたら「クラス」は特殊なのかもしれない。


しかしよく考えたら、フランス映画ってヌーヴェル・バーグの時代から結構政治的な作品というのは多かった。そういう政治的なものをエンタテインメントというオブラートに包んで提出していた英国映画に較べ、よりストレートな政治色が強かったという印象がある。「クラス」と同様の映画がもし英国で作られたら、シニカルな英国人は、同じ題材でコメディ仕立てにするんじゃないかという気がする。しかしそのことに対して真っ正面から描くというのがフランス風と言えるか。







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