定職にも就かずほとんどホームレス状態で生きているブリュノ (ジェレミー・レニエ) との間にできた子供を産んで退院してきたソニア (デボラ・フランソワ) は、ブリュノをなんとか職に就かせようとするが、ブリュノにその気はまったくない。それどころかソニアが目を離した隙に、ブリュノは金に目が眩んで子供を売り払ってしまう‥‥


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かつて「ロゼッタ」で女房を病気にしてしまい、うちらの車の調子をおかしくしてしまったダルデンヌ兄弟の新作「ある子供」は、なんと生まれてきた子供を金のために売り払ってしまうカップル (というか男の方) を描く問題作だ。題材も予告編もえらく面白そうに見えたんだが、「ロゼッタ」の記憶もまだ生々しいうちの女房は、私に一人で見に行ってと言う。ま、気持ちはわかる。私もなんとはなしに、また車の調子おかしくなんないだろうなという一抹の危惧は持っていたりする。


しかしこちらも既に一応手持ち撮影重視のぶれる画面というダルデンヌ兄弟の癖は知っているので、今回は少なくともできるだけ席は後ろの方に確保して対応する。それにしてもダルデンヌ兄弟作品でしかベルギーという国を見たことがないと、ベルギーってヨーロッパ一の貧乏国かと錯覚してしまいそうだ。ブリュッセルはヨーロッパでも一、二を争う美しい街じゃなかったのか。それなのにダルデンヌ兄弟の描くベルギーは、「ロゼッタ」も今回もジョブレス、ホームレスといった、どん底の世界ばかりだ。たけし作品でしか日本を知らない外国人が、日本をやたらと暴力的な国と思いそうなもんだな。


しかしどんなに富める国にもホームレスはいるし失業中の者もいる。というか、富める国であればあるほど、そのおこぼれに与ってまともに働かなくても生きていくことはできたりするから、逆に働かない者は増える。そうやって持つ者持たざる者の格差は大きくなっていくばかりなのだが、繁栄する国というものでは、こういう格差が大きくなることは歴史が証明している。かといってすべての人々が平等であろうとした国はそのすべてが失敗に終わっているという例を見ると、こういう格差は国や歴史を前進させるダイナミズムの一つであるとも思える。歴史の必然というか必要悪というか、避けて通れない道なんだろう。


とはいえ「ロゼッタ」では、ロゼッタはなんでもいいから職を得ようと必死になっていたわけだが、「ある子供」ではカップルの女性の側のソニアは、ボーイフレンドのブリュノになんでもいいから働いて欲しいと思っているのに、ブリュノの方にはそんな考えはまったくない。働くということはブリュノの辞書には載ってないのだ。金というものはより簡単に、あるいは人を騙したり脅したりすることで手に入れるものだ。結局はそのためによけい無理難題を背負い込むことになっても、それがブリュノの考え方であり、そういう考え方はたぶん現代という社会では自滅の第一歩であろうという一般的な通念はブリュノには通用しない。


そのためブリュノは、赤ん坊ですら金になるという話を聞くと、そんな簡単なことで金が手に入るならと、後先の考えもなく赤ん坊を売ってしまう。それが後でどういう結果になるかということなんて一顧だにしない。実際どう考えても先進国では人身売買は犯罪であり、バレたらお縄なのは考えるまでもないことだ。そのことがブリュノにはわからない。結局ブリュノは逮捕されるのが嫌で売った赤ん坊を買い戻さざるを得ず、当然それには利子がつき、逆に売った金よりも高い金を払うはめになり、その金を稼ぐためにさらに悪いことに手を出さざるを得なくなるというふうに、どんどんドツボにはまる。ああ、やっぱりダルデンヌ兄弟の作品って正視し難い。ベルギーのダルデンヌかデンマークのラース・フォン・トリアーかって感じだ。


しかし、そういうチンケな犯罪でどんどん自分の首を絞めていくブリュノの行動が、またハリウッド大作もかくやと思われるほどスリリングで手に汗握るところが、ダルデンヌ兄弟の力を知らしめている。特撮ゼロの撮影でこれだけやれるか、ではハリウッドの爆薬CG使いまくりの特撮は、あれはいったい何なんだと思えるほどの緊張感がスクリーンに横溢する。結局金じゃなくてアイディア、演出力、アップじゃなくてすべてを映すロング・ショット、息をつかさぬカットの連続じゃなく、1シーン1ショットの一期一会の底力か。


赤ん坊を売る時の廃墟のようなアパート・ビル、その赤ん坊を買い戻す時のどこぞのガレージでの、相手の姿をまったく映さずに醸し出すサスペンスはただもんじゃないし、排気量50ccかどう見ても125ccは超えていまいと思われるスクーターで、エンジンめいっぱいぶん回しながら二人乗りしてひったくりして逃げる時のカー・チェイスにも手に汗握る。その後、たぶん凍りそうになるくらい冷たい運河に身を浸して隠れるというシーンでは、ほとんどこちらが凍死しそうになった。いや、このシーンとやがて公開の「ポセイドン」ではどちらがスリリングだろう。


「ある子供」はアメリカでは「L'enfant」と、オリジナル・タイトルのまま公開されている。「隠された記憶」が「Cache」とやはりオリジナル・タイトルのまま公開されたのと同じ展開だ。「Cache」にはかっこづきで「Hidden」と英タイトルが付随していたが、これまた「L'enfant」もかっこづきで「The Child」と英タイトルが添えられているところまでそっくりだ。


とはいっても、私のようにフランス語 (ベルギー語?) に疎い者には、そのたった一つの単語でもなんと発音するかがわからない。英語がchildであるわけだからl'enfantも子供を意味することはわかるし、邦題が「ある子供」であることからもそれは明白である。しかし、だからその単語が発音できるかはまたまったく別問題だ。「子供」であることが間違いないなら、これはあれだな、「恐るべき子供たち」の「アンファン・テリブル」のアンファンだな、ということは基本的な発音はアンファンなんだろ、確かアンニュイという単語もeから始まっているわけだし、この場合の母音のeはa発音であるようだ。


しかしこの前の定冠詞のlが曲者だぞ。フランス語ってなんでも縮めたがる癖があるからな。そうするとこいつはランファンか? それにしても英タイトルがThe Childであるからにはこのl'は定冠詞であるわけだろ? それが邦題では「その子供」ではなく「ある子供」と、いかにもオリジナルでは不定冠詞がついていたようになっているのはなぜだ? オリジナル・タイトル、英タイトルから察するに、その「子供」が作品中の誰かを指しているのは明白だ。l'が男性定冠詞として、それが生まれたばかりの子を意味しているのか、それとも成長していないブリュノを意味しているかは判然としないが、childrenではなくchildと単数形であることから見ても、最終的な判断はたぶん観客にまかされているとしても、この二人のうちどっちかを意味しているのは間違いないだろう。


それなのに邦題の「ある子供」では、その方向性がぼかされる。このタイトルでは登場人物の誰かというよりも、もっと敷衍した、一般的な意味での子供たち全員を指すような気にすらなる。なんというか、責任の所在を曖昧にしてしまうような、こういうタイトルのつけ方がまた日本的だよな、それはそうと、で、結局このタイトルはいったいぜんたいなんと発音するんだ? などと煩悶しながら歩いているうちに、劇場に着いてしまった。これはいかん、やっぱりわからない。これはもう、前に並んでいる者がなんと発音するかを聞いてそいつを真似するしかない、結局「Cache」とまったく同じことをやることになってしまうが、この際だ、やむを得まい。


と思いながら窓口の前に来たら、がーん、なんと誰も並んでいない。これじゃ人真似もできない。どうしよう、と思いながらも足は進み、窓口のおばさんと視線が合ってしまう。そこでは私はとっさに、「ザ・チャイルド」一枚、と思わず逃げを打ってしまったのであった。自分が根性なしの小市民の一人に過ぎないことを自分自身で納得してしまった一瞬であった。







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L'enfant (The Child)   ある子供   (2006年4月)

 
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