The Mule


運び屋  (2018年12月)

クリント・イーストウッド主演の作品というと、2012年の「人生の特等席 (Trouble with the Curve)」以来6年振り、演出と出演も兼ねる作品は、2008年の「グラン・トリノ (Gran Torino)」以来10年振りだ。それよりも何よりも、今春「15時17分、パリ行き (The 15:17 to Paris)」で新作を発表したばかりのイーストウッドが、一年も経たないうちに次の作品が公開される。しかも今度は演出だけでなく出演も兼ねている。あの歳でこの忙しさは何だ。 

 

というか、それをこなせる体力がすごい。さすがに一見しただけでは歳をとったなという印象は隠せないが、たぶん本人はそれを気にしてないんだろう。ただし見かけは歳とっているのは確かなので、それを利用してスクリーンに現れる。必要ならば演技もするというスタンスで、自分の中では特に演出だけ、演技だけ、という風にどちらかに注力する必要性は感じてないんだと思われる。 

 

その新作「運び屋」は、前回の「15時17分、パリ行き」、および前々回の「ハドソン川の奇跡 (Sully)」に引き続き、実話を基にしたドキュドラマだ。むろん「15時17分、パリ行き」も「ハドソン川の奇跡」も、イーストウッドのこととて単純に事実を再構成した作品にはなっていなかった。というか、フィクションよりも虚構の印象を強く受ける、一筋縄では行かない作品に仕上がっていた。 

 

その点、「運び屋」はイーストウッドにしては珍しくもストレートフォワードな作りとなっていて、これまでで最も癖がない。これはまず、ニューヨーク・タイムズに掲載された記事を基にしたというオリジナルの人物をこちらが知らないこととも関係があるように思う。 

 

「15時17分、パリ行き」では本人が本人として登場していながら素人のため作りものくささが抜けず、「ハドソン川の奇跡」では主人公に扮するトム・ハンクスが実際のモデルにあまりにも似てなさ過ぎているためやはり作りものくさかったという、虚構くささがここにはない。 

 

今回はイーストウッド本人が主人公に扮しているわけだが、賭けてもいいがきっとイーストウッドは実際の人物に似ていない。なぜならばこれまでの経験からして、イーストウッドはそれがたとえドキュドラマであっても、スクリーン上に登場する人物が実在の本人に似ているということにはまったく注意を払っていないからだ。イーストウッドにとって、それが実話であろうとも、映画はまた別のものであり、似せようという努力ははなから放棄している。実際の話、本人が本人に扮していても映画としては嘘くさくなってしまう場合、役者がある人物に似せようという努力に何の意味がある? 

 

と断言してしまって、実はイーストウッド、本人に似てたりしたら申し開きが立たんなと思って、念のためにモデルとなったレオ・シャープのニューズ映像をユーチューブで見てみた。そしたら、これが実は結構イーストウッドに似てなくもない。少なくとも「ハドソン川の奇跡」におけるハンクスとモデルとなったサリー・サレンバーガーの似ても似つかなさに較べれば、かなり似ていると言える。イーストウッド自身は特にそういうメイキャップをしているわけではなく、シャープに似せようとは特に考えていなかったのは確実なのにもかかわらず、わりと似ちゃっている。これだからイーストウッドの映画ってば油断できない。 

 

映画ではイーストウッド扮するアールがほぼアメリカ大陸を縦断してドラッグを運ぶわけだが、なんだかイーストウッドのかつてのロード・ムーヴィの傑作「センチメンタル・アドベンチャー (Honkytonk Man)」を思い起こさせる。ただし今回はそばに少年は座っておらず、持ち物はギターではなくドラッグで、歌も歌わない。それでもイーストウッドがトラックを運転すると、どうしても「センチメンタル・アドベンチャー」を思い出さずにはいられない。 

 

その年季もののピックアップ・トラックも、金が入った途端、新しい四駆に買い換えられてしまう。かれこれ10年ほど前に、半世紀以上も続いた当時のアメリカ・ソープ界の最長寿番組「ガイディング・ライト (Guiding Light)」が最終回を迎えた時、その最後のシーンは、フォードのピックアップ・トラックが去っていくというものだった。その、古き佳き時代を代表するフォードのトラックが、「運び屋」ではたまたまあぶく銭を稼いだアールによって、即座にリンカーンの新車の四駆に買い換えられる。しかも得意そうだ。そうやって、過去のものとして追いやられることに最も憤っていたはずのアールが、古いトラックを躊躇なく切り捨てる。あんたは間違っているはずで、どこかでそのツケを払わざるを得まい。 

 

実はアールは、自分が間違っていることにそもそもの最初から、家にあまり帰らず娘の結婚式にも出なかったかなり昔から気づいている。それでも、自分の性は変えられない。それはドラッグの運び屋になってからも同じで、かなり危ない橋を渡っている最中だというのに、途中のモーテルでは妙齢の若い女性に囲まれて鼻の下を伸ばす。お前、いったいいくつだ。 

 

イーストウッドが監督主演している作品で、最も「運び屋」を連想させる「センチメンタル・アドベンチャー」では最後に主人公は死に、最も新しい「グラン・トリノ」でも、やはり主人公は死ぬ。共に悪人ではなかった両作品で死んでしまうのだ。明らかに悪事に手を染める「運び屋」で、最後に主人公が死なないわけがなかろう。むろん、イーストウッドのこととて、そういう思い込み通りに事が運ぶかは、見て確かめるしかない。










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アール (クリント・イーストウッド) は花作りを生き甲斐と商売にしていて、家族のことを後回しにしても花作りに精を出し、実の娘の結婚式すら忘れる有り様だった。羽振りのいい時はそれでもまだよかったが、コンピュータも使えず最新の情報を手に入れることもないアールの商売はやがて廃れ、妻も娘も去り、一人取り残される。ある時、娘の家を訪れたアールは、そこにいた招待客の一人から名刺をもらい、連絡をとってみればと勧められる。それは安全で信頼できる運び屋を探していたドラッグ・ディーラーで、昔取った杵柄でアメリカ中の道路を熟知し、歳をとって乱暴な運転をせず、一見して警察から疑われる可能性のほとんどないアールは、実はドラッグの運び屋にうってつけだった‥‥ 


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