The Adjustment Bureau


アジャストメント  (2011年3月)

ニューヨークの新進気鋭の政治家デイヴィッド・ノリス (マット・デイモン) は、スキャンダルによって選挙に負けるが、その日、コンテンポラリー・バレエ・ダンサーのエリース (エミリー・ブラント) と出会う。彼女こそ唯一の女性と思い始めるデイヴィッドだったが、とある不思議な男たちが出現し、二人の間に障害を入れ始める。二人が一緒になることはよりよい未来のためにはならないという予定表に準じて、世界をアジャストメントするために使わされた男たちだった。彼らは指令に則って、デイヴィッドとエリースの仲を裂くための状況をセットアップする。しかし彼らも終わることのない仕事に追われて疲れていた。それでついうたた寝して、デイヴィッドとエリースを再会させてしまう。世界はあるべきではない方向に動き始める‥‥


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人はどうしても運命とか未来とかいうものを気にせずにはいられない。人が頭を使う生物である限り、誰も未来や将来のことを考えるという特性から脱することはできない。想像力というものは未来の事を予想することに他ならず、それなしには人は日々の生活を送れないだろう。


しかし、未来が予め決められているとすればどうだろう。我々がベストを尽くし、未来をよりよくしようと努力し、足掻いていることまで予め決められたことであって、結局すべては予定調和でしかないとしたら。


こういう発想は様々なSFで見たり聞いたりしたことがある。SF作家でなくても誰でも一度はそういうことを考えたことがあるのではないか。どこかにこの世界を司っている者がいて、自分はその世界を形作る駒の一つに過ぎず、自分が自由意志で生きて判断していると思っている事どもは、すべて実は予めセットされているのではないか。


フィリップ・K・ディック原作の映像化である「アジャストメント」は、そういう世界を描く話だ。世界は実は天上から使わされたボルサリーノを被ったスーツ姿の男たちによって、決められたことが滞りなく起こるように監視されていた。時に予定から外れて暴走しそうになる事態に際しては、彼らが念入りに調整を施して事態の収束を図っていた。


その予定調和から大きく外れそうな事態が起ころうとしていた。若手政治家デイヴィッド (マット・デイモン) は、バレエ・ダンサーのエリース (エミリー・ブラント) と出会うが、彼らの予定表によると、二人の遭遇は将来この世界に予測不能な事態を引き起こしかねない大きな危険性を秘めていた。なんとしてでも二人が恋愛関係に陥ることは阻止しなければならない。


デイヴィッドは、一度はエリースのことを忘れ去ろうとしたが、どうしてもかなわず、自力でエリースを探し始める。800万人もの人間がいるニューヨークでそのことはほとんど不可能に見えたが、「彼ら」の予定表にデイヴィッドとエリースのラインがクロスする徴しが現れる。デイヴィッドの強い想いが不可能を可能にしたのだ。しかしまだ時間はある。彼らは万全を期して二人の再開を阻止するために小細工をする。朝、出勤途中のデイヴィッドが持っているコーヒーを揺らしてちょっとだけこぼさせるだけでよかった。そこでデイヴィッドの行動が一瞬遅れるだけで、デイヴィッドとエリースの遭遇は回避できるはずだった。


しかし世界では様々なことが同時に起こっており、そのすべてを彼らが支配しているわけではなかった。いつでもなんらかの綻びは起き、彼らはその後始末に追われていた。彼らも疲れていた。デイヴィッドとエリースの邂逅を阻止すべく彼らが所定の位置に陣取ったその朝、彼らの一人が一瞬居眠りしてデイヴィッドのコーヒーをこぼし損ねる。デイヴィッドはコーヒーを持ったまま無事バスに乗り、そしてエリースに再会してしまう。また少し未来に綻びが生まれ、彼らはその処理を迫られる。デイヴィッドに姿を見られようとも、彼らはなにがなんでも事態の収拾を図らなければならなかった‥‥


コーヒー・カップをちょっと揺らすだけでそれが世界の将来を変えるという発想は非常に楽しい。あの時、あれがもうちょっとだけあれしていたら、なんていう類いの悔いや反省は、誰もが日常茶飯的に経験している。実際、そのちょっとした違いが大きな結果の差を生む。交通事故なんて、100秒の何分の1の油断や判断ミスで起きる。その一瞬前までは、事故が起きる兆候なぞまるでなかったのに。一瞬で未来は変わり得るのだ。


未来を変えるというアイディアには、基本的に二つのやり方がある。今現在の状況を変えるために、過去に戻ってやり直すという方法と、予め予定されている未来を変えるために、今、現在なんらかの方策を練るというやり方だ。「ターミネイター (Terminator)」でスカイネットがとった方法が前者だし、「アジャストメント」では後者だ。とはいっても視点を変えると堂々巡りになって永遠に収拾のつかないブラック・ホール入りしてしまうのが、時間軸テーマの作品の難しいところだ。「バック・トゥ・ザ・フューチャー (Back to the Future)」的な、あまり掘り下げないエンタテインメントとして機能させるならまだしも、深入りしすぎると何がなんだかわけがわからなくなる。


なんて考え始めると頭の中でフューズが飛びそうな感じになってしまうのだが、「アジャストメント」の場合、それに神が絡む。なんてったって世界は神の意志によって展開しているのだ。すべては神のみ心のまま。科学だけで説明がつくものではない。西洋人は神と絡めて時間の問題を解かねばならず、大変だなあと思う。


その神の使いの者たちがなぜだか皆、スーツを着てボルサリーノを被っているというのがなんとも不思議だが、それはそれでなんとなく納得してしまう。デイヴィッドに接触するハリー (アンソニー・マッキー) とか、そのボス (ジョン・スラッテリー) とか、そのまた親分 (テレンス・スタンプ) とか、みんな、なんか、いかにもそんな感じに見える。スーツ姿が様になるということだろうか。特に近年、AMCの「マッド・メン (Mad Men)」で名を知られるスラッテリーなんか、そのままTVから抜け出してきたよう。


彼らは独自のルートによってマンハッタンのありとあらゆるところに自在に出没できるのだが、その時彼らが利用するのが、ドラえもんの「どこでもドア」だ。むろんそういう名が使われているわけではないが、ああ、ドラえもんだと思いながら見ていた。ただし、「アジャストメント」ではドアを持ち歩くのではなく、既に存在しているドアを利用する。ある特定の手順にのっとって特定のドアを開くと、そこは空間を捻じ曲げて別の場所に繋がっているのだ。


私事になるがうちの職場はマンハッタンの21丁目のフラット・アイアン地区にある。映画の前半部分でデイヴィッドとエリースが再会を果たすシーンは、23丁目のマディソン・スクエア・パーク近辺を舞台としている。すぐそばなのだ。同様にイヴェント・ホライズン (Event Horizon) もマディソン・スクエア・パーク周辺で展開していた。たぶん映画の撮影は昨春だろうから、時期的にも合う。もしかしたら背景に見えるビルの屋上のどれかに、眼下を見下ろしている人影があったかもしれない。アジャストメント・ビューローからつかわされたように見える不思議な者たちが頭上から人々を見下ろしている、なんてシーンがどこかにあるかも、なんて思いながら見ていた。演出は「オーシャンズ12 (Ocean’s Twelve)」「ボーン・アルティメイタム (The Bourne Ultimatum)」の脚本家出身のジョージ・ノルフィ。デイモンに縁がある。








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