Melinda and Melinda   メリンダとメリンダ  (2005年4月)

ニューヨークのとあるカフェであるグループが議論を交わしている。人生の本質は果たして悲劇か喜劇か。例えばここにメリンダという女性がいる。ある上流階級のディナー・パーティの場所に数年ぶりにいきなり姿を現した彼女は、その間に歩いてきた悲劇的な人生を語る。待て待てとグループのもう一人が遮る。それこそ喜劇的なシチュエイションじゃないか。そしてほとんど同じ設定を即興でコメディにしてみせる。はてさて人生は悲劇か喜劇か‥‥


_____________________________________________________________________


90年代以降しばらく遠ざかっていたウッディ・アレンであるが、3年前に「さよなら、さよならハリウッド (Hollywood Ending)」を見て、やはりアレンって才能あるなあと再確認、しかしやはり毎年毎年アレン作品を見ようという気にもならず、昨年の「エニシング・エルス」はパスしていたのだが、またぞろそろそろアレン作品を見てもいい頃かなという気になってきた。やっぱ毎年じゃなく、2、3年に一本の割合で撮ってくれると私のリズムに合うんだが、まあ、私の都合で撮ってくれるわけじゃなし。


今回のアレンは、同じ作品の中で、同一人物が一方は喜劇、もう一方は悲劇のヒロインとして登場するという二部構成、いや、その二部構成を話しているカフェのグループを含めると三部構成で、こういうのをしれっと撮るというのが、もう、いかにもアレンという気がする。アレン以外考えつかないし、たとえ考えついてもアレンじゃなければスタジオも金を出さないんじゃないか。


主人公のメリンダを演じるのが「ネバーランド」でジョニー・デップ演じる主人公の妻を演じたラーダ・ミッチェルで、同じマーク・フォースター作品の「エヴリシング・プット・トゥゲザー」や「フォーン・ブース」等でどちらかというとシリアスな役ばかりという印象があるミッチェルが、半分は悲劇とはいえ喜劇にも出ているのを初めて見た。そしてそのために、かなり新鮮な魅力を発揮していると言える。こうやって見ると、むしろコメディの方が合ってるんじゃないか。こういう隠れた魅力を見逃さないところが、やはりまたアレンのうまさという気がする。因みに今回の話にはアレン本人は登場しない。


メリンダは、一方では夫と子供がありながらよろめいた挙げ句、自殺未遂をして人生を投げ出した悲劇のヒロインで、ある日昔馴染みのセヴィニー演じるローレルらの前に姿を現し、居候させてもらう。ローレルのパーティでピアノを弾いていたエリスとの仲が進展するのだが、結局それも破れる運命にある。もう一方の喜劇の方のメリンダは、売れない俳優のホビーと映画作家のスーザンが住む部屋の階下に住むという設定で、ホビーは本気で妻と別れてメリンダと一緒になろうと考えるのだが、そうは簡単に問屋が卸すはずもなかったという展開だ。


メリンダは悲劇ヴァージョンでも喜劇ヴァージョンでも恋に落ちるわけだが、その相手と、周りを囲むキャラクターの人選もアレンならではだ。悲劇ではラヴ・インテレストの相手のエリスを演じるのが「堕天使のパスポート (Dirty Pretty Things)」でほとんど眠れなかったキウェテル・エジョフォーであり、彼女の友人の一人はいかにも上流階級面しているクロイ・セヴィニーだ。一方、喜劇ヴァージョンでは恋のいざこざを起こす相手のホビーは「サタデイ・ナイト・ライヴ」のウィル・フェレルであり、そのフェレルの妻スーザンに扮するのがアマンダ・ピートと、内容を知らなくても、この人選を聞いただけで既に内容を把握した気にさせる。思わずこれだけで、作品を見ないでもああ面白かったと言ってしまいたいような気になるのだ。


どちらかと言うと、喜劇ヴァージョンと悲劇ヴァージョンでは、私の場合は悲劇の方が印象に残る。悲劇の方がよりドラマティックになるため記憶に残りやすいというのは、どうしてもあるんじゃないか。しかし、とはいえよく考えると、人生は悲劇か喜劇かというこの設定はあまりにも二者択一に過ぎる。人生はギリシア悲劇やシェイクスピアのように、悲劇か喜劇かのどちらかのエッセンスだけが詰まっているわけではない。そういうのは誰あろうアレン本人がよく知っていることだろう。それでも、古典を読み込んでいるアレンにとっては、こういう発想は自然なんだろう。そしてたぶんそういう発想こそが、今、アレンがうまく時代と寄り添っておらず、批評家からも観客からも冷遇されている最大の理由となっている気がする。相も変わらずうまいし才能あるなあと感じさせるんだが、その才気が勝ちすぎるのだ。


とはいえ、やはりアレン作品は面白い。ケチをつけようと思えばいくらでもつけられるような気もするが、では、こういう作品を他の誰かが撮れるかというと、それは無理だろう。なんやかや言いつつも、アレンは唯一無二の存在なのだ。結局目先が変わっただけでいつも同じことの焼き直しじゃないかという意見も聞くが、しかしやはりアレンって定期的に見たくなる。アレンとマーティン・スコセッシが定期的に作品を撮っている限り、ニューヨーク派はまだまだ安泰だろう。






< previous                                      HOME

 
inserted by FC2 system