Hollywood Ending
さよなら、さよならハリウッド (2002年5月)
Hollywood Ending
さよなら、さよならハリウッド (2002年5月)
さて、問題は「スターウォーズ: エピソード2」である。既に木曜から公開は始まっており、うちの近くの前の劇場を通ってもいつも若い奴等で列ができており、出足は上々と見た。もしかしたら2週間前に「スパイダーマン」が作ったばかりの興行記録を更新してしまうかもしれない。しかし、記録的に人が入るからといって面白いとは限らないというのは、3年前の「エピソード1」で「スターウォーズ」自身が証明している。「スターウォーズ」シリーズはイヴェント映画だから内容とは関係なく人が入るような仕組みになっており、ガキどもはこの映画を見ていないと学校で話の輪に加われないから、とにかく見てないと話が始まらないが、だからといって大人でも楽しめるかというと、それはまた話が別だ。
実は私は前回で懲りたので、今回はもうほとんど興味がなく、はっきり言ってパスしようと思っていた。特に「エピソード1」では、繊細な人間ドラマ、情の機微が描けないというジョージ・ルーカスの最大の弱点をまんま暴露してしまっていたが、あれだろう、今回はそのアナキン・スカイウォーカーがナタリー・ポートマンとの恋に破れて悪への道を一歩踏み出すという、ドラマ部分に比重がかかっているんだろう。こりゃあダメだ、また寝てしまうかもしれない。きっと「エピソード3」ではその反動でアクションがめいっぱいの活劇になるだろうから、それまで待つかと思っていた。
しかし、最近TVでがんがんかかりだしたコマーシャルを見ると、やはりアクション・シーンは面白そうだ。それだけを見に劇場に行っても、充分元はとれるかもしれない。ううん、どうしよう、思案のしどころだ。結局、しばし悩んだ末に、もうしばらく待って、この映画を見た知人からの意見を聞いてから最終的な結論を出すことにする。それからでも遅くはあるまい。というわけで見に行ったのが、「スターウォーズ」とまったく毛色の違う、ウッディ・アレンの新作コメディ「ハリウッド・エンディング」であった。最近アレンの映画はほとんど見てなかったし。
気難しがり屋で知られている映画監督のヴァル・ワックスマン (アレン) に、ハリウッドのスタジオ、ギャラクシーが新作を撮らせることになる。元ヴァルの妻で、今はギャラクシー社長のハル (トリート・ウィリアムス) と婚約しているエリー (ティア・レオニ) が、ニューヨークを舞台とする作品なら彼がうってつけだと強力にプッシュしたのだ。しかし今度作品を失敗したら映画監督生命にかかわるというプレッシャーのせいで、ヴァルは一時的に視力を失ってしまう。この仕事を降りるわけにはいかないヴァルは、あの手この手を使って見える振りをしながら撮影を進めるが‥‥
それにしてもアレンほど多作で、しかも粒揃いの作品を次々に送り出している映画作家となると、なまじっかのレヴェルでは批評家は誉めてくれない。前作よりも今作、今作より次回作がよくないと、ダメになったといって叩かれてしまうのだ。それは可哀想でしょう。シリアスになったらなったでいつも「アニー・ホール」や「マンハッタン」を超えるレヴェルの作品を撮らないといけないし、コメディならコメディで「カメレオンマン」くらいのやつをいつも撮らないと、才能が枯れたと言われてしまう。
この多作のアレンと比較して私がついつい思い出してしまうのが、森博嗣である。90年代後半、ほぼミステリ界の話題を独り占めしていた森であり、私もはまって犀川/萌絵シリーズは全作買って読んだが、あれほど短いインターヴァルでこう矢継ぎ早に新作を出されると、はっきり言って飽きる。すべて、読んだら面白く、水準をクリアしているとは言っても、段々とどうしてもこの人、自分で自分のパロディになっていっているなあという思いを禁じ得ない。読み手/観客の勝手な主観ではあるが、物事にはまた次のやつが見たい、読みたいなあと思うようになるまでのインターヴァルが必要であり、森とアレンは、その間隔が短すぎるのだ。現代では映画も小説もほぼ無限の選択肢がある。それなのに他の人の作品ではなくてその人の作品をまた見たい、読みたいと思わせるには、映画作品で約2年、小説で半年は次の作品を発表するまで待ってもらいたい。
これはたとえインターヴァルが短くても、本人がいつでも傑作や水準以上の作品を発表できるということとはまったく関係ない。単に読み手/観客が次の作品に行く心の準備ができるまで、それくらいの準備期間が必要なだけなのだ。それを満たしていなければ、作品がどんなに傑作であると言われても、私の場合、見ないで終わる確率が高くなる。現在アレンがたとえどんな作品を発表しようともほぼ十中八九文句を言われてしまい、興行的に失敗してしまうのは、まさしく、まだ市場が彼の作品を見る気分になっていないからではないのか。
そう考えてしまったのも、「ハリウッド・エンディング」が実は滅茶苦茶面白かったからである。私は通常、コメディ映画を見に劇場までわざわざ足を運ばない。だいたい笑えなくて、コメディを見に行ってるのに不愉快な気分になって帰る羽目になることが多いからだ。コメディという点なら、まだTVのシットコムを見ていた方がよほど笑える。それなのに、「ハリウッド・エンディング」を見ていて、私は少なくとも3回は爆笑してしまった。他にくすくすとしてしまったところは数知れずである。これはコメディ関係の私の標準から言うと、べらぼうに笑う回数が多い。実際、映画を見てこんなに笑った記憶は最近ない。しかし、アレンの作品を毎回見ている人間が見たら、またしても性懲りもなく同じものを、と思うのも必至だろう。一方でこれが初めてのアレン作品という人間にとっては、アレンが天才に思えるのもまた必定だと思う。
だいたい、映画監督が撮影中に目が見えなくなってしまい、それがばれると撮影が中止になってしまうため、誰にも知られないようごまかしながら撮影を進めるというそもそものアイディアの骨格からして、もうやられたという感じがする。その基本的なアイディアだけで、ほぼ作品の成功は約束されていると思えてしまうくらいだ。通常、失明というと思い出すのは古くはチャップリンの「街の灯」から最近は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」や「ポン・ヌフの恋人」まで、物語をドラマティックにするのに用いられてきた要素であり、普通はシリアスな設定でこそ生きる。それをコメディとして使用する発想の逆転こそ、アレンのうまさである。
何よりも視力が重要な映画監督という仕事において、その監督を一時的にせよ失明させるというアイディアは、ものすごく自虐的である。アレン本人の職業も映画監督であり、作品の中ではその上その失明する映画監督を演じるという二重の責め苦に耐えているわけで、しかもその状況を使って情け容赦なくギャグを飛ばす。自分で自分の逆境をどんどんエスカレートさせて行く様は、アレンってこんなにマゾヒスティックな監督だったのかと思ってしまった。しかし、こういう設定、ルビッチあたりが撮っていてもおかしくないなと思わせるが、一応色々と資料を当たってみたが、やはり今回が初めてのようだ。誰かがもう既に撮っていてもおかしくないが、実は誰も撮っていなかったという作品のアイディアを思いつけることこそ、才能という気がする。
また、演出する際のアレンの心理的、物理的な経済性というのも例を見ない。映画の冒頭、スタジオの重役が次の作品の監督として誰を選ぶかという話になるのだが、開口一番、レオニがアレン演じるはどうかと持ちかける。助走も何もなくいきなり本題に入るのだが、ここで既に前置きをカットした分、5分は時間をセイヴしたという感じがする。とどめは一時的に失明したアレンが最後、また視力を取り戻す場面で、セントラル・パークのベンチにレオニと共に座っていたアレンが、いきなり、見える、と叫んで終わりなのである。段々見えるようになる、というドラマティックな演出はまるでなく、もうほとんど話は終わったから、よし、今度は見えるようにしてやらないと話が進まないから見えるようにしてやったという、この、余分な尾ひれをつけない、ほぼご都合主義的な演出もたまらない。でも、これはコメディなんだし、笑えない5分間のドラマをストーリーに辻褄をつける必要上、仕方がないから付け加えるよりも、こういう、必要ないシーンはばさっと思い切り切り捨ててしまうアレンの判断の方が正しいと思う。
今回私がこんなに感心したのは、実は最近のアレン作品は見てなかったからということも非常に大きいだろう。正直に告白すると、実はアレン作品は94年の「ブロードウェイと銃弾」以来なのだ。実に8年ぶりであり、それだからこそこれだけ楽しめたというのはまず間違いない。「ブロードウェイと銃弾」以降どんなに話題になってもアレン作品を見る気になれなかったのは、まったくもって毎年決まり切ったように公開されるアレン作品に、少しばかり飽きたからである。特に彼のように自分自身が毎回スクリーンにも登場すると、どうしても何か以前同じものを見たような気になってしまう。やはり新作は2年、いや、3年に1回ぐらいの頻度で発表してもらいたい。そうすれば全部見るのも気にならなくなる。
しかし、彼のような多作家がブランクを開けていられないだろうということも、なんとなくではあるがわかる気がする。以前笹沢佐保が作家には多作型と寡作型がおり、多作型は量産していないと逆にスランプに陥る、みたいなことをどこかに書いていたのを覚えているが、アレンや森はまさしくそのタイプなんだろうと思う。自然に浮かんでくるアイディアを形にしないと次に進めないのだ。たとえ市場がそれを要求していようといまいと。それでも小説家はまだいい。別に読者が今読みたくなくても、それまでのファンならまず買っておいて将来読みたくなった時に読もうと思うだろう。あるいは読みたくなった時に本屋に行けばいい。しかし映画の場合、そういうわけにもいかない。数年後にはヴィデオ化するだろうが、劇場で見る映画とヴィデオで見る映画は別物だし、旬の作品を劇場で見る醍醐味というのは半減される。
「ハリウッド・エンディング」がほとんどの批評から叩かれていて、それどころか観客からも黙殺されて、先週公開されたばかりだというのに今週は既に公開劇場の数が半分になってしまい、来週はもしかしたら劇場から消え去る運命にありそうなのを見ると、興行は水物、ビジネスとして成立させるのは難しいと本当に思う。残念。傑作なのに。しかし、それでも今から断言しといてもいいと思うが、今後あと3、4年は私はアレンの作品を見ることはないだろう。そして3、4年後にほとぼりが冷めた頃にまたアレンの新作を見て、うわあ、アレンってやっぱり一種の天才なんだなあと感心することになるのも、また確かなような気がする。